第一回 → 黄巾賊(一)
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そのうちに寄手の陣頭から、河内の太守王匡、その部下の猛将方悦(ハウエツ)と共に、
「呂布を討つて取れ」
と、呼ばはりながら、河内の強兵をすぐつて、呂布の軍へ迫つた。
敵が打鳴らす鼓の轟きを耳にしながら、
「動くな。近づけろ」
呂布は、味方を制しながら、落着き払つてゐたが、やがて敵味方、百歩の間に近づいたと見るや、
「それつ、みな殺しにしてしまへ」
と号令一下、呂布自身も、跨(またが)れる赤兎馬に鉄鞭一打くれて、むらがる河内兵の中へ突入して行つた。
「わツしよつ」
呂布の懸声だ。
画桿(グワカン)の方天戟を、馬上から右に左に、
「えおオつ!……」
と振るたびに、敵兵の首、手足、胴など血けむりと一緒に、吹き飛んでゆくかと見えた。
「やあ、口ほどもないぞ、寄手の奴輩(やつばら)、呂布これにあり。呂布に当らんとする者はないのか」
傲語(ガウゴ)を放ちながら、縦横無尽な疾駆ぶりであつた。
無人の境を行くが如しとは、正に、彼の姿だつた。何百といふ雑兵が波を打つてその前を遮つても、鎧袖一触にも値しないのである。
馬は無双の名馬赤兎。その迅さ、強靱さ、逞しさ。赤兎の蹄(ひづめ)に踏みつぶされる兵だけでも、何十か何百か知れなかつた。
洛陽童子でも、それは唄にまで謡つてゐる——
牧場に駒は多けれど
馬中の一は
赤兎馬よ
洛陽人は多けれど
勇士の一は
呂布奉先
従つて、かねて聞く五原郡の呂布を討ち取つた者こそ、こんどの大戦第一の勲功とならうとは——寄手もひとしく思ひ目がけてゐるところだつた。
河内の猛将方悦は、
「われこそ」
と、呂布へ槍を突つかけたが、二、三合とも戦はぬまに、呂布の方天戟の下に、馬もろ共、斬下げられた。
太守王匡は、又なき愛臣を討たれて、
「おのれ、匹夫」
と、自ら半月槍を揮つて、呂布へ駒を寄せ合わせたが、
「太守危し」
と、加勢にむらがる味方がばた[ばた]と左右に噴血を撒いて討死するのを見て、色を失ひ、あわてて駒を引返した。
「王匡、恥を忘れたな」
呂布がうしろから笑つた。然(しか)し、王匡の耳には入らなかつた。
もつともその時。味方の危機と見て、喬瑁軍と袁遺軍の二手の勢が、呂布の兵を両翼から押し狭めて、
わあツつ……
うわあ……つツ
と、鼓を鳴らし、矢を射、砂煙をあげて、牽制して来たのだつた。
赤兎馬は、怯まない。忽ち、その一方に没したかと見ると、そこを蹂躙し尽して、又忽ち、一方の敵を蹴ちらすといふ奮戦ぶりだつた。
上党(ジヤウタウ)の太守張楊の旗下に、穆順(ボクジユン)といふ聞えた名槍家があつた。その穆順の槍も、呂布と戦つては、苦もなく真二つにされてしまつた。
北海の太守孔融の身内で、武安国(ブアンコク)といふ大力者(だいりきもの)があつたが、それも、呂布の前に立つと、嬰児(あかご)のやうに扱はれ、重さ五十斤という鉄の槌(つち)も、いたづらに空を打つのみで、片腕を斬り落され、はふ[はふ]の態(テイ)で味方のうちへ逃げこんでしまつた。
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次回 → 虎牢関(三)(2024年2月23日(木)18時配信)