第一回 → 黄巾賊(一)
前回はこちら → 関羽一杯の酒(六)
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——華雄討たれたり
——華雄軍崩れたり
敗報の早馬は、洛陽をおどろかせた。李粛は、仰天して、董相国に急を告げた。董卓も、色を失つてゐた。
「味方は、どう崩れたのだ」
「汜水関に逃げ帰つてゐます」
「関を出るなと命じろ」
「取敢(とりあへ)ず、援軍の行くまで、さうしてをれと、命令しておきました」
「どうして、あの華雄ほどな勇将が、むざ[むざ]討たれたのだらう」
「何といつても、袁紹には、地方的な勢力も徳望もありますから」
「袁紹の叔父、袁隗(ヱンクワイ)は、まだ洛陽の府内にゐたな」
「太傅(タイフ)の官にあります」
「物騒千万だ。この上、もし内応でもされたら、洛陽は忽(たちま)ち壊乱する」
「てまへも案じてゐますが」
「由々しいものを見のがして居つた。すぐ除いてしまへ」
太傅袁隗のやしきへ、直(す)ぐ丞相府の兵千餘騎が向けられた。
表裏から火を放つて、逃げだしてくる男女の召使(めしつかひ)も武士も、みな殺しにしてしまつた。もちろん、袁隗も逃がさなかつた。
即日、廿万の大兵は、洛陽を発した。
その一手は、李傕(リクワク)、郭汜(クワクシ)の二大将に引率され五万餘騎、汜水関の救護に向つた。
又、別の一手は。
これは十五万と算(かぞ)へられ、董卓自身が率ゐて、虎牢関(コラウクワン)の固めに赴いたのである。
董卓を守る旗本の諸将には、李儒、呂布をはじめとして、張済(チヤウサイ)、樊稠(ハンチウ)などゝいふ錚々たる人々がゐた。虎牢関の関は、洛陽を距(へだた)ること南へ五十餘里、こゝの天嶮に、十万の兵を鎮(チン)すれば、天下の諸侯は通路を失ふといはれる要害だつた。
董卓は、そこに本陣を定めると、股肱の呂布をよんで、
「そちは関外に陣取れ」
と、三万の精兵を授けた。
この要害に、董卓自ら守りに当つて、十二万の兵を鎮し、さらに三万の精兵を前衛に立てゝ、万夫不当といはれる呂布をその先手に置いたのであるから、正に金城鉄壁の文字どほりな偉観であつた。
斯(か)く、十州の通路を断たれて、諸侯が各〻その本国との連絡を脅(おび)やかされて来たので、寄手の陣には、動揺の兆しがあらはれた。
「由々しい事となつた。今のうちに、謀(はかりごと)を議して、方針を示しておかう」
袁紹は、曹操へ耳打(みゝうち)した。
曹操も、同感であるとて、さつそく評議をひらき、軍の方針を明(あきら)かにした。
敵が、二手となつて、南下して来たので、当然、こちらの兵力も二手とした。
で、一部を汜水関に残し、あとの軍勢は挙げて、虎牢関に向ふことゝなつた。総兵力は八ケ国といはれ、その八諸侯は、王匡、鮑信、喬瑁、袁遺(ヱンヰ)、孔融(コウユウ)、張楊(チヤウヤウ)、陶謙(タウケン)、公孫瓚などであつた。
曹操は、遊軍として臨んだ。味方の崩れや弱みを見たら、随意に、そこへ加勢すべく、遊兵の一陣を擁して、控へてゐた。
「……来たな」
と、北軍の呂布は、例の名馬赤兎に跨(またが)り、虎牢関の前衛軍のうちから、悠々、寄手の備へをながめてゐた。
呂布、その日のいでたちは。
朱地錦(あかぢにしき)の百花戦袍(ヒヤククワセンパウ)を着たうへに、連環の鎧を着かさね、髪は三叉(サンサ)に束(つか)ね、紫金冠(シキンクワン)をいたゞき、獅子皮(シシヒ)の革(かは)に弓箭(キウセン)をかけ、手に大きな方天戟をひつさげて、赤兎馬も小さく見えるばかり踏み跨つた容子は——寄手の大軍を圧して、
「あれこそ、呂布か」
と、眼をみはらせるばかりだつた。
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次回 → 虎牢関(二)(2024年2月22日(木)18時配信)