第一回 → 黄巾賊(一)
前回はこちら → 関羽一杯の酒(五)
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関羽の揮(ふる)ふ青龍刀の向ふところ、万丈の血けむりと、碧血(ヘキケツ)の虹が走つた。
はるかに、味方の陣を捨て、むらがる敵軍の中へ馳け入るなり
「華雄やある。敵将華雄はいづれにあるぞ。わが雄姿に恐れをなして潜んだるか。出合へつ」
と、呼ばはつた。猛虎が羊の群れを追ふやうに、数万の敵は浪打つて散つた。
喊(とき)の声は、天地をつゝみ、鼓声(コセイ)はみだれ、山川もうごくかと思はれた。
此方(こなた)——敗色に漲(みなぎ)つてゐた味方の本陣では、彼の働きに、一縷ののぞみをかけて
「戦況いかに?」
と、袁紹、曹操をはじめ、国々の諸侯みな総立ちとなつて、帷幕のうちから、戦ひの空を見まもつてゐた。
すると、やがて。
敵も味方も、鳴(なり)を忘れて、〔ひそ〕となつた一瞬——まるで血の池を渡つて来たやうな黒馬に跨がつて、関羽は静々(しづ[しづ])と、数万の敵兵をしり目に、袁紹、曹操たちの眼のまへに帰つて来た。
ひらと、駒を降りるや、
「いざ、諸侯の御実見に」
と、階を上つて、中央の卓の上に、まだ生々しい一個の首級を置いた。
それは、敵の大将、華雄の首であつたから、満堂の諸侯も、階下の兵も、われをわすれて
「おゝ、華雄だ」
「華雄の首を打つた」
と、期せずして、万歳をさけぶと、その動揺(どよ)めきに和して、味方の全軍も、いちどに勝鬨(かちどき)をあげた。
関羽は、数歩すゝんで、曹操の前に立ち、血まみれな手のまゝ、先に預けておいた酒杯(シユハイ)を取りあげて
「——では、この御酒を、頂戴いたします」
と、胸を張つて、一息に飲みほした。
酒は、まだ温(あたゝ)かだつた。
曹操は、彼の労を多として
「見事だ。もう一献、注(つ)いでやらう」
と、手づから瓶(ヘイ)を持つと、
「いや、ひとりそれがしの誉(ほまれ)としては済みません。どうか、その一献は、全軍のために挙げて下さい」
「さうか。いかにも。——では万歳を三唱しよう」
酒杯(さかづき)を持つて、曹操が起立すると、ふたゝび破れんばかりな勝鬨の嵐が起つた。
すると、玄徳のうしろから、
「あいや、勝利に酔ふのはまだ早い。義兄関羽が、華雄を斬(う)ち取つたからには、此方(このはう)とても、一手柄してみせる。この機を外さず、全軍をすゝめ給へ。此方、先鋒に立つてまたゝくまに洛陽へ攻め入り、董相国を生擒(いけど)つて、諸侯の階下にひきすゑてお見せ申さん」
と、誰か叫んだ。
人々が、振向いてみると、それは一丈八尺の蛇矛(ジヤボウ)を突つ立てゝ玄徳のそばに付いてゐた張飛であつた。
袁紹の弟、袁術は、苦々しげに、見やつて、
「いらざる雑言を申すな。諸侯高官、国々の名将も、各〻、謙譲の口をとぢて、さし控へてをるに、汝、一県令の部下として、身のほどを辨(わきま)へんか。僭上なやつだ。だまれつ」
と、叱つた。
曹操が、宥(なだ)めると、袁術はなほ〔つむじ〕を曲げて
「かやうな軽輩を用ひて、吾々と同視するなら、自分は自分の兵をまとめて、本国へ帰る」
と、憤然として云つた。
むづかしくなりさうなので、曹操は、公孫瓚に告げて、玄徳、関羽、張飛の三人を、席から退(ひ)かした。
そして、夜になつてから玄徳の所へ、ひそかに酒肴を贈つて、悪く思はないやうにと、三名の心事を慰めた。
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次回 → 虎牢関(一)(2024年2月21日(水)18時配信)