第一回 → 黄巾賊(一)
前回はこちら → 関羽一杯の酒(三)
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ひきもきらぬ伝令が、みな味方の危機を告げるばかりなので総大将袁紹をはじめ、満堂の諸将軍もさすがに色を失つて
「いかゞせん!」
と、浮腰になつた。
曹操は、さすがに
「狼狽してもしかたがない。こんな時は、よけい胆気(タンキ)をすゑるに限る」
と、侍立の部下を顧みて、
「酒を持つてこい」
と、命じた。
「はつ」
酒杯は、各将軍の卓にも、一ツづゝ置かれた。曹操は、杯をもつと、きび[きび]飲んでゐた。
わあつツ……
うわあつ
百雷の鳴るような鬨(とき)の声だ。大地が、ぐわう[ぐわう]と地鳴してゐる。
又、血まみれの斥候が一名、堂の階下へ来て
「だつ、だめですつ」
絶叫してこときれてしまつた。
すぐ又、次の二、三騎が
「味方の中軍は、敵の鉄兵に蹂躙され、為(ため)に、四散して、もはやここの備へも、手薄となりました」
「本陣を、至急、他へ移さぬと危いと思はれます。包囲されます」
「あれ〔あれ〕、あの辺りに、もはや敵の先駆が——」
告げ来り、告げ去り、もはやここの本陣も、さながら暴風の中心に立つ一木の如く、枝々(シシ)みな震ひ樹葉みな顫(ふる)へた。
「注(つ)げ」
曹操は、部下に酒を注がせ、なほ腰をすゑてゐたが、酔ふほどに、蒼白となつた。
「包囲されては」
と、早くも、本陣の退却を、ひそ[ひそ]議する者さへある。
酒どころか、諸将軍の顔の半分以上は、土気色だつた。
万丈の黄塵は天をおほひ、山川草木みな血に嘯(うそぶ)く。
——時に、突如席を立つて
「云ひがひなき味方かな。このうへは、それがしが参つて、敵勢をけちらし、味方の頽勢(タイセイ)を一気にもり返してお目にかけん」
と、咆(ほ)ゆるが如く云つて、はや剣を鳴らした者がある。
袁紹将軍の寵将(チヨウシヤウ)で、武勇の誉れ高い兪渉(ユセフ)といふ大将であつた。
「行け」
袁紹は、壮なりとして、彼に杯を与へた。
兪渉は、ひと息に飲んで
「いでや」
とばかり、兵を引いて、敵軍のまつたゞ中へ駆け入つたが、瞬く間に、彼の手兵は敗走して来て
「兪渉将軍は、乱軍の中に、敵将華雄と出会つて、戦ふこと、六、七合、忽(たちま)ち彼の刀下に斬つて落された」
との事に、満堂の諸侯は驚いていよ[いよ]肌に粟(あは)を覚えた。
すると、太守韓馥が
「𤢖(さは)ぎ給ふな。われに一人の勇将あり。いまだ曽(か)つて、百戦に負(おく)れを取つた事を知らない潘鳳(ハンホウ)といふ者である。彼なれば、たやすく華雄を打取つてくるにちがひありません」
袁紹は、よろこんで、
「どこにをるか、その者は」
「多分、後陣の右翼にをりませう」
「すぐこれへ呼べ」
「はつ」
潘鳳は、召(めし)に応じて、手に大きな火焔斧(クワエンフ)をひつ提(さ)げ、黒馬を躍らして、本陣の階下へ馳けて来た。
「いかさま、頼母(たのも)しげなる豪傑だ。すぐ馳け入つて、敵の華雄を打取つて来い」
袁紹の命に、潘鳳はかしこまつて、直(たゞち)に乱軍の中へはいつて行つたが間もなく潘鳳も亦(また)、華雄のために討ち取られ、その首は、敵の凱歌の中に、手玉に抛(ほふ)られて、敵を歓ばしめてゐるという報(し)らせに、満堂ふたゝび興をさまし、戦意も失つてしまつたかに見えた。
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次回 → 関羽一杯の酒(五)(2024年2月19日(月)18時配信)
なお、日曜日については夕刊が休刊のため、配信はありません。