第一回 → 黄巾賊(一)
前回はこちら → 関羽一杯の酒(一)
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「しまつたツ——」
折れた弓を投げ捨てゝ、孫堅また駒を回(めぐ)らし、林の中へと逃げ入つた。
「御主君、御主君」
祖茂は、馳けつゞいて来ながら、孫堅に云つた。
「——盔(かぶと)をお脱(と)りなさい。あなたの朱金の盔は、燦として、あまりに赤いから眼につきます。敵の目印になります」
「や、さうか」
道理で、ひどく追ひ矢が集まると思ひ当つたので、孫堅は頭にかぶつていた「幘(サク)」という朱金襴(シユキンラン)の盔を手ばやく脱いで、焼け残りの民家の軒柱へそれを懸け、あわてて附近の密林へかくれこんでゐた。
見てゐると、——案のぢやう、その盔へ雨霰のやうに、敵の矢が飛んできた。
だが、いくら射ても、射ても盔は燦爛として、位置も変らないので、射手の兵は怪しみ出し、やがて近づいてきて
「や、孫堅はゐない」
「盔ばかりだ」
と、立騒いでゐた。
林の上に、月は煌(コウ)として冴えてゐた。白影黒影、さながら魚群の泳ぐやうに、孫堅の行方をさがし求めてゐる。
その中に、華雄の姿もあつた。
孫堅の臣、祖茂は、木かげに潜つてゐたが、それを見るとむらむらとして
「うぬつ、董賊の股肱めツ」
と、槍をしごいて、突かんとした。
眼ばやく、ちらと、こちらへ眸をうごかした華雄は
「敗残の匹夫、そこにゐたかツ」
と、雷喝した声は、まるで大樹も裂くばかりで、刃鳴(ジンメイ)一閃の下に祖茂の首は飛んでしまつた。
青い血けむりを後に
「誰か、今の首を拾つて来い」
と、兵に云い捨てゝ華雄は悠々と他へ駒を向けて立去つた。
「……あゝ、危かつた」
後に。——孫堅はほつと辺りを見まはしてゐた。首のない祖茂の胴体が抛(はふ)り出されてあるすぐ近くの灌木の茂み中に、孫堅も息をこらして潜んでゐたのである。
「……祖茂よ、あゝ惨(サン)だ」
孫堅は落涙した。祖茂が日ごろの忠勤を思ひ出して、胸が痛んだ。
さはいへ、敵の重囲のなかだ。孫堅は気を取直して、血路を思案した。矢傷の苦痛もわすれて二里ばかり歩いた。
やがて、逃げのびて来た味方を集めたが、それは全軍の十分の一にも足らない数だつた。殆(ほとん)ど、全滅的な敗北を遂げたのである。
悲痛なる夜は明けた。
敗れた者の傷魂のやうに、その晩、残月のみが白かつた。
「先鋒の味方は全滅したぞ」
「敵の大軍は、勝(かち)に乗つて刻々迫つて来つゝある——」
後方の本陣は、大動揺を起した。
総帥の袁紹、唯幕の曹操、みな色を変へた。
前(さき)には。
鮑将軍の弟の鮑忠が、抜けがけをして、かなりの味方を損じたといふ不利な報告があつたし、今また、先鋒の孫堅が、木ツ破微塵な大敗を蒙(かうむ)つたと云ふ知らせに、幕営の諸将も、全軍の兵気も
「いかゞすべき?」
と、云はんばかり、すつかり意気沮喪の態(テイ)であつた。
それか、あらぬか。
袁紹、曹操を始めとして、十七鎮の諸侯は、その日、本営の一堂に会して、頽勢(タイセイ)挽回の大作戦会議をこらしてゐた。けれど、敵軍の旺(さかん)なことや、敵将華雄の万夫不当な勇名に圧しられてか、何となく会も萎縮してゐた。
総帥の袁紹も、甚だ冴えない顔をしてゐたが、ふと坐中の公孫瓚のうしろに立つて、ニヤ〔ニヤ〕笑みをふくんでゐる者が眼についたので
「公孫瓚、貴公のうしろに侍立してゐる人間は誰だ。いつたい何者だ」
と、質(ただ)した。——不愉快な!と云はんばかりな語気を以(もつ)てゞある。
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次回 → 関羽一杯の酒(三)(2024年2月16日(金)18時配信)