第一回 → 黄巾賊(一)
前回はこちら → 江東の虎(三)
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汜水関の方からは、たえず隠密を放つて、寄手の動静をさぐらせてゐたが、その細作(サイサク)の一名が、副将の李粛へ、或る時かういふ報告をして来た。
「どうもこの頃、孫堅の陣には、元気が見えません。をかしいのは兵站部(ヘイタンブ)から炊煙がのぼらない事です。まさか、喰はずに戦つてゐるわけでもないでせうが」
李粛は、それを聞き置いて、次の日、べつな方面から、又二名の細作を呼び寄せて質(たゞ)した。
「近頃、寄手の後方に変りはないか」
「敵の糧道はどうだ」
「こゝ一ケ月半ばかり、糧車は通つた事はありません」
李粛はうなづいて、もう一名の細作へ向ひ、
「敵の馬は、よく肥えてゐるか」
「このごろ妙に痩せて来たやうに見られます」
「敵の兵隊は、どんな歌を謡(うた)ふか」
「慕郷の歌をよく謡つてゐます」
「よろしい」
細作たちを退けると、李粛はすぐに、大将華雄に会つて、一策を献じた。
「寄手の孫堅を生擒つてしまふ時が来ました。こよひ手前は、一軍をひいて間道から敵の後へまはり、不意に夜討ちをかけますから、将軍は火光を合図に関門をひらき、正面から一挙に押出してください」
「成功の見込みがあるかね」
「ありますとも。てまへが探り得たところでは、孫堅は何か疑はれて、後方の味方から兵糧の輸送を絶たれてゐるやうです。そのため兵気はみだれ、戦意は昂(あが)らず、こゝ内紛を醸してをるやうです。——今こそ、孫堅の首は、手に唾(つば)して奪(と)るべしです」
「さうか。——今夜は月明だな」
「絶好な機(しほ)ではありませんか」
「よし、やらう」
秘策は、夕方までに一決した。
その夜、李粛は、一軍の奇兵をひいて、月明りをたよりに、間道をすゝみ、梁東の部落を本拠に布陣してゐる寄手の背後へまはつて、突如、喊(とき)の声をあげた。
「わあツ——、わあツ」
鉄(?)兵は、闇にまぎれて、孫堅の幕中へ突き入り、諸所へ火を放ち、弓の弦を切つて迫つた。
梁東の空に、赤い火光を見ると、かねての手筈である、華雄は、汜水関の大扉を、八文字にひらかせて、
「それつ、孫堅を生擒りにしてこの門へ迎へ捕れ」
と、ばかり万軍の中に馬を駆つて、あたかも峡谷を湧きでる山雲のやうに、関下へ向つて殺到した。
何でたまらう。梁東の寄手は、忽(たちま)ち駆けみだされた。
「退くな」
「あわてるな」
と、孫堅の旗本は、善戦して部下を励ましたが、その兵は、甚だしく弱かつた。
一ケ月も前から、何故か、味方の後方から兵糧の輸送が絶えてゐた為(ため)、彼等は不平に燃え、軍紀は行はれず、兵も痩せ、馬も痩せてゐたからである。
「無念」
と、思つたが孫堅も、施すに術(すべ)がなかつた。
旗本の程普とか黄蓋(クワウガイ)などゝも駈け隔てられてしまひ、祖茂(ソモ)といふ家来一人をつれたのみで、遂に、みじめな敗戦の陣地から、馬に鞭打つて逃げ走つた。
それと見るや、敵将の華雄は、飛ぶが如く馬を打つて、
「孫堅、卑怯なり、返せつ」
と呼ばはつた。
「何を」
孫堅は、振向いて、馬上から弓をもつてそれに酬いた。二すじまで射たが、矢はみな反(そ)れた。焦心(あせ)りながら、第三矢をつがへたが、餘り強く引いたので、弓は二つに折れてしまつた。
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次回 → 関羽一杯の酒(二)(2024年2月15日(木)18時配信)