第一回 → 黄巾賊(一)
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この暁。
洛陽の丞相府は、なんとなく、色めき立つてゐた。
次々と着いて来る早馬は、武衛門(ブヱイモン)の楊柳(ヤウリウ)に、何頭となく繫(つな)がれて、心ありげに、嘶(いなゝ)きぬいてゐた。
「丞相、お目をさまして下さい」
李儒は、顔色をかへて、董卓の寝殿の境をたゝいていた。
宿直(とのゐ)の番士が、
「お目ざめになりました。いざ」
と、帳を開いて、彼の入室をゆるした。
艶(なま)めかしい美姫(ビキ)と愛くるしい女童(めわらべ)が、董卓に侍(かしづ)いて、玉盤に洗顔の温水をたゝへて捧げてゐたが、秘書の李儒がはいつて来たのを見ると、目礼して、遠い化粧部屋へ退(さが)つて行つた。
「何だな。早朝から」
董卓は、脂肪ぶとりの肥大な体を、相かはらず重さうに揺るがして、榻(タフ)へ倚(よ)つた。
「大事が勃発しました」
「又、宮中にか?」
「いや、こんどは遠国ですが」
「草賊の乱か」
「ちがひます。——曽(かつ)てなかつた叛軍の大がかりな旗挙げが起りました」
「どこに」
「陳留を中心として」
「では、主謀者は曹操か袁紹のやつだらう」
「左様です。忽(たちま)ちのうちに、十八ケ国の諸国をたぶらかし、われ密詔を受けたりと偽称して、幕営二百餘里にわたる大軍を編制しました」
「そいつは捨ておけん」
「元よりの事です」
「で——まだ詳報は来ないか」
「昨夜、夜半から今暁(コンゲウ)にかけて、頻々たるその早馬です。——すでに、敵は袁紹を総大将と仰ぎ、曹操を参謀とし、その第一手の先鋒を呉の孫堅がひきうけて、汜水関(河北省・汜水)近くまで攻め上つて来た由にございます」
「孫堅。——あゝ、長沙の太守だな。あれは戦(いくさ)は上手かな?」
「上手な筈(はず)です。何しろ、兵法で有名な孫子の末孫ですから」
「孫子の末裔だと」
「はい。呉郡(ゴグン)富春(フシユン)(江蘇省・上海附近)の産で、孫名は堅、字は文臺(ブンダイ)と申し、南方ではなか[なか]名の売れてゐる男です」
と、李儒は、かねて聞き及んでゐる彼の人がらに就(つい)て、こんな話をした。
それは、孫堅が十七歳の頃の事である。
孫堅は父に伴われて、銭塘(センタウ)地方へ旅行したことがある。当時、銭塘地方の港場(みなとば)は、海賊の横行が甚だしくて、その害をかうむる旅船や旅客は数知れないくらゐだつた。
ある夕べ、孫堅が父と共に、港を歩いてゐると、海岸で何十人といふ海賊共が、海から荷揚げした財貨を山分けするので騒いでゐた。
孫堅は、それを見かけると、わづか十七歳の少年のくせに、いきなり剣を抜いて、海賊の群へ躍り入り、賊の頭目を真二つに斬つて、
(我は、沿海の守護なり)
と叫んで、阿修羅のごとく、暴れまはつた。
賊は驚いて、あらかた逃げてしまつた。為(ため)に、山と積まれてあつた盗難品の財宝は、後に、それぞれ被害者の手に回(かへ)つた。その中には、銭塘の富豪が家宝とした宝石の匣(こばこ)などもあつた。けれど孫堅は、一物も礼など受けなかつた。
以来、彼の名は、弱冠から南方にひゞいて、その人望は、抜くべからざるものになつてきた——といふ話なのである。
「ふーム。そいつは相当な男だと見える。然(しか)らばこちらからも、由由(ゆゆ)しい大物を大将として、討伐に向はせねばならんが……」
董卓もさすがに、慎重になつて、
「はて、誰がよいか」
と、思案してゐた。
すると、帳(とばり)の蔭にあつて、
「丞相々々、それがしの在るを、何とて忘れ給ふか」
と、不平さうに云ふ者があつた。
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次回 → 江東の虎(二)(2024年2月12日(月)18時配信)
なお、日曜日については夕刊が休刊のため、配信はありません。