第一回 → 黄巾賊(一)
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今でこそ、地方の一郷士に落魄(おちぶ)れてゐるが、何といつても、曹家は名門である。嫡子の曹操も亦(また)、出色の才人と、遠近に聞えてゐる。
「密勅をうけて降つたものである——」
といふ曹操の声に、先(ま)づ近村の壮丁や不遇な郷士が動かされた。
「陳宮、こんな雑兵ぢや仕方がないが、もつと有力な諸州の刺史(シシ)、太守などが集まるだらうか」
時々、彼は陳宮へ計つた。
陳宮は献策した。
「忠義を旗に書いて待つてゐるだけでは駄目です。もつと憂国の至情を吐露なさい。鉄血、人を動かすものを打(ぶ)つつけなさい」
「どうしたらいゝか」
「檄(ゲキ)を飛ばすことです」
「おまへ、書いてくれ」
「はい」
陳宮は、檄文を書いた。
彼は、心の底から国を憂へてゐる真(まこと)の志士である。その文は、読む者をして奮起せしめずに措(お)かないものであつた。
「——あゝ名文だ。これを読めば、おれでも兵を引つ提(さ)げて馳せ参ずるな」
曹操は感心して、すぐ檄を諸州諸郡へ飛ばした。
英雄もたゞ英雄たるばかりでは何も出来ない。覇業を成す者は、常に三つのものに恵まれてゐるといふ。
天の時と、
地の利と、
人である。
将(まさ)に、曹操の檄は、時を得てゐた。
日ならずして、彼の「忠」「義」の旗下には続々と英俊精猛が馳せ参じて来た。
「それがしは、衛国(ヱイコク)の生れ、楽進(ガクシン)、字(あざな)は文謙(ブンケン)と申す者ですが、願はくば、逆賊董卓を、ともに討たんと存じ、麾下(キカ)に馳せ参つて候(さふらふ)」
と、名乗つて来る者や、
「——自分らは沛国譙郡の人、夏侯惇(カコウジユン)、夏侯淵(カコウヱン)と云ふ兄弟の者ですが、手兵三千をつれてきました」
と、いふ頼もしい者が現はれて来たりした。
尤(もつと)も、その兄弟は、曹家がまだ譙郡にゐた頃、曹家に養はれて、義子となつてゐた者であるから、真つ先に馳せつけて来るのは当然であつたが、そのほか毎日、軍簿に到着を誌(しる)す者は、枚挙に遑(いとま)がないくらゐであつた。
山陽(サンヤウ)鉅鹿(キヨロク)の人で李典(リテン)、字は曼成(マンセイ)といふ者だの——徐州の刺史陶謙(タウケン)だの——西涼の太守馬騰(バトウ)だの、北平(ホクヘイ)太守の公孫瓚(コウソンサン)だの——北海(ホクカイ)の太守孔融(コウユウ)なんどといふ大物が、各々何千、何万騎といふ軍を引いて、呼応して来た。
彼の帷幕(ヰバク)にはまた、曹仁、曹洪のふたりの兄弟も参じた。
一方、それらの兵に対して、曹操は、衛弘から充分の軍費をひき出して、武器糧食の充実にかゝつてゐた。
「あのやうに、軍資金が豊富なところを見ると、彼の檄は、空文でない。ほんとに朝廷の密詔を賜はつてゐるのかも知れん」
形勢を見てゐた者までが、その隆々たる軍備の急速と大規模なのを見て、
「一日遅れては、一日の損がある——」
と云はんばかり、争つて、東西から来り投じた。
(河南の地を兵で埋めてみせん)
と、いつか衛弘に云つた言葉は、今や空なる豪語ではなくなつたのである。
従つて、富豪衛弘も、投財を惜(をし)まなかつた。いや、彼以外の富豪までが、みな乞はずして、
「どうか、費(つか)つてくれ」
と、金穀を運んできた。
すでに曹操はもう、多くの将星を左右に侍(はべ)らせ、三軍の幕中に泰然とかまへてゐて、さういふ富豪の献物が取次がれて来ても、
「あ、左様か。持つて来たものなら取つておいてやれ」
と、云ふぐらゐのもので、会つて遣(や)りもしなかつた。
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次回 → 競ふ南風(三)(2024年2月7日(水)18時配信)