第一回 → 黄巾賊(一)
前回はこちら → 偽忠狼心(ぎちうらうしん)(四)
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——怖るべき人だ。
曹操の一言を聞いて、陳宮はふかく彼の人となりを考へ直した。そして心に懼(おそ)れた。
この人も、天下の苦しみを救はんとする者ではない。真に世を憂へるのでもない。——天下を奪はんとする野望の士であつた。
「……過(あやま)つた」
陳宮も、こゝに至つて、密かに悔いを嚙まずにゐられなかつた。
男子の生涯を賭して、道づれとなつた事を、早計だつたと思ひ知つた。
けれど。
すでにその道は踏み出してしまつたのである。官を捨て、妻子を捨て、共に荊棘(ケイキヨク)の道を覚悟の上で来てしまつたのだ。
「悔いも及ばず……」
と、彼は心を取直した。
夜が更けると、月が出た。深夜の月明りを頼りに、十里も走つた。
そして、何処か知らぬ、古廟の荒れた門前で、駒を降りて一休みした。
「陳宮」
「はい」
「君も一寝入りせんか。夜明けまでには間がある。寝ておかないと、あしたの道に又、疲労するからな」
「寝(やす)みませう。けれど大事な馬を盗まれるといけませんから、どこか人目につかぬ木蔭に繫(つな)いで来ます」
「ムム。さうか。……あゝ然(しか)し惜(をし)いことをしたなあ」
「何ですか」
「呂伯奢を殺しに戻つたくせにしてさ、おれとした事が、彼が携(たづさ)へてゐた美酒と果実(くだもの)を奪つて来るのを、すつかり忘れて居たよ。やはり幾らかあわてゝゐたんだな」
「…………」
陳宮には、それに返辞をする勇気もなかつた。
馬を隠して、暫(しばら)くの後、又そこへ戻つて来てみると、曹操は、古廟の軒下に、月の光りを浴びて、いかにも快(こゝろよ)げに熟睡してゐた。
「……何といふ大胆不敵な人だらう」
陳宮は、その寝顔を、つく[づく]と見入りながら、憎みもしたり、感心もした。
憎む方の心は、
(自分は、この人物を買ひ被(かぶ)つた。この人こそ、真に憂国の大忠臣だと考へたのだ。ところが何ぞ計らん、狼虎にひとしい大野心家に過ぎない)
と、思ひ、又敬服する方の半面では、
(——然(しか)し、野心家であらうと姦雄であらうと、とにかくこの大胆さと、情熱と、おれを買ひ被(かぶ)らせた程の辯舌とは、非凡なものだ。やはり一方の英傑は英傑にちがひないなあ……)
と、自(ひと)り心のうちで思ふのであつた。
そして、さう二つに観られる自分の心に質(たゞ)して、陳宮は、
「今ならば、睡(ねむ)つている間に、この曹操を刺し殺してしまふ事もできるのだ。生かしておいたら、かういふ姦雄は、後に必ず天下に禍(わざはひ)するだらう。……さうだ、天に代つて、今刺してしまつた方がいゝ」
と、考へた。
陳宮は、剣を抜いた。
寝顔をのぞかれてゐるのも知らず、曹操は鼾声(いびき)をかいてゐた。その顔は実に端麗であつた。陳宮は迷つた。
「……いや、待てよ」
寝込みを殺すのは、武人の本領でない。不義である。
それに、今のやうな乱世に、かういふ一種の姦雄を地に生れさせたのも、天に意(こゝろ)あつての事かも知れない。この人の天寿を、寝てゐる間に奪ふことは、かへつて天の意に反(そむ)くかも知れない。
「噫(あゝ)……。何を今になつて迷ふか。おれは又煩悩すぎる。月は煌々と冴えてゐる、さうだ、月でも見ながらおれも寝よう」
思い止まつて、剣をそつと鞘にもどし、陳宮もやがて同じ廂(ひさし)の下に、丸くなつて寝こんだ。
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次回 → 競ふ南風(一)(2024年2月5日(月)18時配信)
なお、日曜日については夕刊が休刊のため、配信はありません。