三国志研究会(全国版)会報

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吉川英治『三国志(新聞連載版)』(128)偽忠狼心(ぎちうらうしん)(四)
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吉川英治『三国志(新聞連載版)』(128)偽忠狼心(ぎちうらうしん)(四)

昭和15年(1940)2月3日(土)付掲載(2月2日(金)配達)

三国志研究会(全国版)
Feb 02, 2024

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第一回 → 黄巾賊(一)

前回はこちら →  偽忠狼心(ぎちうらうしん)(三)

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 曹操は、もう闇へ向つて、急がうとしてゐた。

「陳宮。はやく来い」

「はつ」

「何を愚図々々(ぐづ[ぐづ])してゐるのだ」

「でも……。どうも、気持が悪くてなりません、慚愧にたへません」

「なんで」

「無意味な殺生をしたぢやありませんか。かはいさうに、八人の家族は、われ[われ]の旅情をなぐさめる為(ため)に、わざ[わざ]猪(ゐのこ)を求めて来て、もてなさうとしてゐたんです」

「そんな事を悔いて、家の中へ、掌を合せていたのか」

「せめて、念仏でも申して、科(とが)なき人たちを殺した罪を、詫びて行かうと思ひまして」

「はゝゝゝ。武人に似合はんことだ。為(し)てしまつたものは是非もない。戦場に立てば何千何万の生霊(セイレイ)を、一日で葬ることさへあるぢやないか。又、我身だつて、何時(いつ)さうされるか知れないのだ」

 曹操には、曹操の人生観があり、陳宮には又、陳宮の道徳観がある。

 それは違ふものであつた。

 けれど今は、一蓮托生の道づれである。議論してゐられない。

 二人は、闇へ馳けた。

 そして、林の中に繫(つな)いでおいた駒を解き、飛び乗るが早いか、二里あまりも逃げのびて来た。

 ——と、彼方から、驢に二箇の酒瓶(さかゞめ)を結びつけて来る者があつた。近づき合ふに連れて、ぷーんと芳熟した果実(くだもの)の佳(い)い匂ひが感じられた。腕には、果物の籠も掛けてゐるのだつた。

「おや。お客人ではないか」

 それは今、隣村から帰つて来た呂伯奢であつたのである。

 曹操は、まづい所で会つたと思つたが、あわてゝ、

「やあ、御主人か。実は、けふの昼間、これへ来る途中で寄つた茶店に、大事な品を忘れたので、急に思ひ出して、これから取りに行くところです」

「それなら、家の召使(めしつかひ)をやればよいに」

「いや[いや]、馬で一鞭当てれば、造作もありませんから」

「では、お早く行つておいでなさい。家の者に、猪を屠(ほふ)つて、料理しておくやうに云つておきましたし、酒もすてきな美酒をさがして、手に入れてきましたからね」

「は、は、すぐ戻つて来ます」

 曹操は、返辞もそこ[そこ]に、馬に鞭打つて呂伯奢と別れた。

 そして四、五町ほど来たが、急に馬を止めて、

「君!」

 と、陳宮を呼び止め、

「君はしばらく此処で待つてゐてくれないか」

 と云い残し、何思つたか、再び道を引つ返して馳けて行つた。

「何処(どこ)へ行つたのだらう?」

 と、陳宮は、彼の心を解きかねて、怪しみながら待つてゐたところ、軈(やが)ての事曹操は又戻つて来て、いかにも心残りを除いて来たやうに、

「これでいゝ!さあ行かう。君、今のも殺(や)つて来たよ。一突に刺し殺して来た」

 と、云つた。

「えつ。呂伯奢を?」

「うん」

「何で、無益な殺生をした上にも亦(また)、あんな善人を殺したのです」

「だつて、彼が帰つて、自分の妻子や雇人(やとひにん)が、皆ごろしになつたのを知れば、いくら善人でも、われわれを恨むだらう」

「それは是非もありますまい」

「県吏へ訴へ出られたら、この曹操の一大事だ。背に腹はかへられん」

「でも、罪なき者を殺すのは、人道に反(そむ)くではありませんか」

「否」

 曹操は、詩でも吟じるやうに、大声で云つた。

「我をして、天下の人に反かしむるとも、天下の人をして、我に反かしむるを休(や)めよ——だ。さあ行かう。先へ急がう!」

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次回 → 偽忠狼心(ぎちうらうしん)(五)(2024年2月3日(土)18時配信)

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