第一回 → 黄巾賊(一)
前回はこちら → 偽忠狼心(ぎちうらうしん)(二)
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【前回迄の梗概】
後漢の霊帝の時、漢の景帝の後裔である劉備玄徳は義兄弟関羽、張飛と共に黄巾賊平定に大功をたて平原県の令となり、家運挽回の時を待つてゐる。
果せるかな中平六年霊帝の洛陽に薨ずるや天下麻の如く乱れたが西涼の刺史董卓は自己の擁する陳留王を皇帝とし一人勢威を洛中に張つた。董卓の餘りの傍若無人振りに憤慨した硬骨漢も少くなかつたが、校尉曹操はその一人であつた。一日、大臣王允の依頼によつて彼は董卓を刺殺せんとして失敗し中牟県の関門において捕へられたが、関門長陳宮は意外にも彼と志を同じくする者であつた。そして彼と共に義兵を天下に集めんことを約束する。
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「ほ、こんな辺鄙の地に、どういうお知合がゐるのですか」
「父の友人だよ。呂伯奢(リヨハクシヤ)といふ者で、父とは兄弟のやうな交(まじは)りのあつた人だ」
「それは好都合ですな」
「今夜はそこを訪れて一宿を頼まう」
語りながら、曹操と陳宮の二人は、林の中へ駒を乗り入れ、やがてその駒を樹に繫いで、尋ね当てた呂伯奢の門をたゝいた。
主の呂伯奢は驚いて、不意の客を迎へ入れ、
「誰かと思つたら、曹家の御子息ぢやないか」
「曹操です。どうも暫(しばら)くでした」
「まあ、お入りなさい。どうしたのですか。一体」
「何がです」
「朝廷から各地へ、あなたの人相書が廻(まは)つてゐますが」
「あゝその事ですか。実は、丞相董卓を討ち損じて、逃げて来た迄(まで)の事です。私を賊と呼んで人相書など廻してゐるらしいが、彼奴(きやつ)こそ大逆の暴賊です。遅かれ早かれ、天下は大乱となりませう。曹操も、もう凝(じつ)としてはゐられません」
「お連れになつてゐる人は誰方(どなた)ですか」
「さう[さう]、御紹介するのを忘れてゐた。これは道尉陳宮といふ者で、中牟県の関門を守備してをり、私を曹操と見破つて召捕へたくらゐな英傑ですが、胸中の大志を語り合つてみたところ、時勢に鬱勃たる同憂の士だといふ事が分つたので、陳宮は官を捨て、私は檻(をり)を破つて、共にこれまで携へ合つて逃げ走つて来たといふわけです」
「あゝさうですか」
呂伯奢は跪(ひざまづ)いて、改めて陳宮のすがたを拝し、
「義人。——どうかこの曹操を扶(たす)けて上げてください。もし貴方(あなた)が見捨てたら曹操の一家一門はことごとく滅んでしまふ他はありません」
と、曹操の父の友人といふだけに、先輩らしく慇懃に将来を頼むのであつた。
そして呂伯奢は、いそ[いそ]と、
「まあ、御ゆるりなさい、てまへは隣村まで行つて、酒を買つて来ますから」
と、驢に乗つて出て行つた。
曹操と陳宮は、旅装を解いて、一室で休息してゐたが、主はなかなか帰つて来ない。
そのうちに、夜も初更の頃、どこかで異様な物音がする。耳をすましてゐると、刀でも磨(と)ぐやうな鈍い響きが、壁を越えて来るのだつた。
「はてな?」
曹操は、疑ひの目を光らし、扉(と)を排して、又耳を欹(そばだ)ててゐたが、
「さうだ。……やはり刀を磨ぐ音だ。さては、主の呂伯奢は、隣村へ酒を買ひに行くなどゝ云つて出て行つたが、県吏に密訴して、おれ達を縛らせ、朝廷の恩賞にあづからうといふ肚(はら)かも知れん」
呟いてゐると、暗い厨(くりや)の方で四、五名の男女の者が口々に——縛れとか、殺せとか——云ひ交(かは)してゐるのが、曹操の耳へ、明かに聞えて来た。
「さてこそ、われ[われ]を、一室に閉ぢこめて、危害を加へんとする計にうたがひなし。——その分なれば、こつちから斬ツてかゝれ」
と、陳宮へも、事の急を告げて、遽(にはか)にそこを飛び出し、驚く家族や召使八名までを、またゝく間にみな殺しに斬つてしまつた。
そして、曹操が先に、
「いざ逃げん」
と、促すと、どこかで未(いま)だ、異様な呻き声をあげて、ばた[ばた]騒ぐものがある。
厨の外へ出て見ると、生きてゐる猪(ゐのこ)が、脚を木に吊るされて、啼いてゐるのだつた。
「ア、しまつた!」
陳宮は甚だ後悔した。
この家の家族たちは、猪を求めて来て、それを料理しようとしてゐたのだ——と、解つたからである。
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次回 → 偽忠狼心(ぎちうらうしん)(四)(2024年2月2日(金)18時配信)