第一回 → 黄巾賊(一)
前回はこちら → 偽忠狼心(ぎちうらうしん)(一)
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曹操は、口を開いた。
「なるほど董卓は、貴公の云はれたやうにこの曹操を愛してゐたに違ひない。——然(しか)しそれがしは、遠く相国曹参が末孫(バツソン)にて、四百年来、漢室の祿(ロク)をいただいて来た。なんで成上り者の暴賊董卓ごときに、身を屈すべきや」
と語気、熱をおびて来て——
「如(し)かず国の為、賊を刺し殺して、祖先の恩を報ずべしと、董卓の命を狙つたが、天運いまだ我に非ず——かうして捕はれの身となつてしまつた。なんぞ今更、悔いる事あらうか」
白面細眼、自若としてさう云ふ容子、さすがに名門の血すぢをひいてゐるだけに、争ひ難い落着(おちつき)があつた。
「…………」
黙然——やゝ暫(しばら)くの間、檻車(カンシヤ)の外にあつてその態(テイ)を見てゐた関門兵の隊長は、
「お待ちなさい」
云ふかと思ふと、檻車の鉄錠をはずして、扉を開き、驚く彼を中から引出して、
「曹操どの。貴君(あなた)はどこへ行かうとしてこの関門へかゝつたのですか」
「故郷——」
曹操は、茫(バウ)とした面持で、隊長の行為を怪しみながら答へた。
「故郷の譙郡(セウグン)に帰つて、諸国の英雄に呼びかけ、義兵を挙げて再び洛陽へ攻め上り、堂々、天下の賊を討つ考へであつたのだ」
「さもこそ」
隊長は、彼の手を曳いて、密かに自分の室へ請(しやう)じ、酒食を供して、曹操のすがたを再拝した。
「思ふに違はず、御辺は私の求めてゐた忠義の士であつた。貴君に会つたことは実に欣(よろこ)ばしい」
「では御身も董卓に恨みのある者か」
「いや、いや、私怨ではありません。大きな公憤です、義憤です。万民の呪ひと共に憂国の怒りをもつて、彼を憎み止まぬ一人です」
「それは、意外だ」
「今夜かぎり、てまへも官を棄てて此関(ここ)から奔(はし)ります。共に力を協(あは)せて、貴君の赴(ゆ)く所まで落(おち)のび、天下の義兵を呼び集めませう」
「えつ、真実ですか」
「なんで噓を。——すでにかう云ふ前に、貴君の縄目を解いてゐるではありませんか」
「あゝ!」
曹操は初めて、回生の大きな歓喜を、その吐息にも、満面にも現して、
「して、貴公は一体、何と仰(お)つしやる御仁か」
と、訊ねた。
「申しおくれました。自分は、陳宮字(あざな)を公台(コウダイ)といふ者です」
「御家族は」
「この近くの東郡に住まつてゐます。すぐそこへ参つて、身支度を代へ、直(すぐ)さま先へ急ぎませう」
陳宮は、馬を曳き出して、先に立つた。
夜もまだ明けないうちに、二人は又、その東郡をも後にすてゝ、ひた急ぎに、落ちて行つた。
それから三日目——
日夜わかたず駆け通して来た二人は、成皐(セイコウ)(河南省・衛輝附近)のあたりを彷徨(さまよ)つてゐた。
「今日も暮(くれ)ましたなあ」
「もうこの辺まで来れば大丈夫だ。……だが、今日の夕陽は、いやに黄いろツぽいぢやないか」
「又、蒙古風(もうこかぜ)ですよ」
「あ、胡北の沙風(サフウ)か」
「どこへ宿りませう」
「部落が見えるが、この辺は何といふ所だらう」
「先程の山道に、成皐路(セイカウヂ)といふ道標が見えましたが」
「あ。それなら今夜は、訪ねて行くよい家があるよ」
と、曹操は明るい眉をして、馬上から行く手の林を指さした。
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次回 → 偽忠狼心(ぎちうらうしん)(三)(2024年2月1日(木)18時配信)