第一回 → 黄巾賊(一)
前回はこちら → 白面郎「曹操」(三)
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「まだ戻らんか」
董卓は、不審を起して、
「試し乗(のり)だと云ひながら、いつたい何処まで馳けて行つたのだ——曹操のやつは」
と、何度も呟いた。
呂布は初めて、口を開いた。
「丞相、彼は怖(おそ)らく、もう此処に帰りますまい」
「何(ど)うして?」
「最前、あなたへ名刀を献じた時の挙動からして、何(ど)うも腑に落ちない点があります」
「ム。あの時の彼奴の素振(そぶり)は、わしも少し変だと思つたが」
「御馬を賜はり、これ幸(さいはひ)と、風を喰らつて逃げ去つたのかも知れませんぞ」
「——とすれば、捨ておけん曲者(くせもの)だが。李儒を呼べ。とにかく、李儒を!」
と、急に疳(カン)高く云つて、巨(おほ)きな軀(からだ)を牀(シヤウ)から降ろした。
李儒は来て、つぶさに仔細を聞くと、
「それは、しまつた事をした。豹(ヘウ)を檻(をり)から出したも同じです。彼の妻子は都の外にありますから、適(て)ツきり相国のお命を狙つてゐたに違ひありません」
「憎ツくい奴め。李儒、何(ど)うしたものだらう」
「一刻も早く、お召(めし)と云つて、彼の住居へ人を遣つてごらんなさい。二心なければ徒(まゐ)りませうが、怖らくもう其家(そこ)にも居りますまい」
念の為(ため)と、直(たゞち)に、使番(つかひばん)の兵六、七騎をやつてみたが、果(はた)して李儒の言葉のとほりであつた。
そして猶(なほ)、使番から告げる事には——
「つい今し方、その曹操は、黄毛(クワウマウ)の駿馬に股(また)がつて、飛ぶが如く東門を乗打(のりうち)して行つたので、番兵が又馬でそれを追ひかけ、漸(やうや)く城外へ出る関門で捉へて詰問したところ、曹操が云ふには——我れは丞相(シヤウジヤウ)の急命を帯びて遽(にはか)に使(つかひ)に立つなり。汝等(なんぢら)、我れを阻(はゞ)めて大事の急用を遅滞さすからには、後に董相国よりいかなるお咎めがあらんも知れぬぞ——との事なので、誰も疑ふ者なく、曹操はそのまゝ鞭を上げて関門を越え、行方の程も相知れぬ由にござります」
との事であつた。
「さてこそ」
と、董卓は、怒気の漲(みなぎ)つた顔に、朱をそゝいで云つた。
「小才の利(き)く奴と、日頃、恩をほどこして、眼(め)をかけてやつた余の寵愛につけ上り、余に叛(そむ)くとは八ツ裂きにしても飽足(あきた)らん匹夫だ。李儒つ——」
「はつ」
「彼の人相服装を画(ゑが)かせ、諸国へ写しを配布して、厳重に布令(ふれ)をまはせ」
「承知しました」
「もし、曹操を生擒(いけど》つて来た者あらば、万戸侯(バンココウ)に封(ホウ)じ、その首を丞相府に献じ来る者には、千金の賞を与へるであらうと」
「すぐ手配しませう」
李儒が退(さが)りかけると、
「待て。それから」
と早口に、董卓は猶(なほ)、言葉をつけ加へた。
「この細工は、思ふに、白面郎の曹操一人だけの仕事ではなからう。きつと他にも、同謀の与類があるに相違ない」
「勿論でせう」
「猶以(なほもつ)て、重大事だ。曹操への手配や追手にばかり気を取られずに一方、都下の与類を虱(しらみ)つぶしに詮議して、引つ捕へたら拷問にかけろ」
「はつ、その辺も、抜かりなく急速に手を廻しませう」
李儒は大股に去つて、捕囚庁(ホシウチヤウ)の吏令(やくにん)を呼びあつめ、物々しい活動の指令を発してゐた。
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次回 → 偽忠狼心(ぎちうらうしん)(一)(2024年1月30日(火)18時配信)