第一回 → 黄巾賊(一)
前回はこちら → 白面郎「曹操」(二)
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その翌日である。
曹操は、いつものやうに、丞相府へ出仕した。
「相国はどちらにお在(い)でか」
と、小役(こやくにん)に訊(たづ)ねると、
「たゞ今、小閣へ入られて、書院で御休息になつてゐる」
との事なので、彼は直(すぐ)にそこへ行つて、挨拶をした。董相国は、牀(シヤウ)の上に身を投げだして、茶を喫(の)んでゐる様子。側には、屹(きつ)と、呂布が侍立してゐた。
「出仕が遅いぢやないか」
曹操の顔を見るや否や、董卓はさう云つて咎めた。
実際、陽(ひ)はすでに三竿(サンカン)、丞相府の各庁でも、みな一仕事すまして午(ひる)の休息をしてゐる時分だつた。
「恐れ入ります。何分、私の持馬は瘦せ衰へた老馬で道が遅いものですから」
「良い馬を持たぬのか」
「はい。薄給の身ですから、良馬は望んでもなか[なか]購(あがな)へません」
「呂布」
と、董卓は振り向いて、
「わしの厩(うまや)から、どれか手頃なのを一頭選んで来て、曹操に遣(つか)はせ」
「はつ」
呂布は、閣の外へ出て行つた。
曹操は、彼が去つたので、
——しめた!
と、心は躍り逸(はや)つたが、董卓とても、武勇はあり大力の持主である。
(仕損じては——)
と猶(なほ)、大事を取つて、彼の隙(すき)を窺(うかゞ)つてゐると、董卓はひどく肥満してゐるので、少し長くその体を牀に正してゐると、すぐ草臥(くたび)れてしまふらしい。
ごろりと、背を向けて、牀の上へ横になつた。
(今だ!天の与へ)
曹操は、心にさけびながら、七宝剣の柄(つか)に手をかけ、さつと抜くなり刃を背へまはして、牀の下へ近づきかけた。
すると、名刀の光鋩(クワウバウ)が、董卓の側なる壁の鏡に、陽炎(かげろふ)の如くピカリと映つた。
むくりと、起上がつて、
「曹操、今の光りは何だ?」
と、鋭い眼を注いだ。
曹操は、刃を納める遑(いとま)もなく、恟(ぎよ)ツとしたが、さあらぬ顔して、
「はつ、近頃それがしが、稀代の名刀を手に入れましたので、お気に召(めし)たら、献上したいと思つて、佩(は)いて参りました。尊覧に入れる前に、そつと拭つてをりましたので、その光鋩が室に盈(み)ちたのでございませう」
と騒ぐ色もなく、剣を差出した。
「ふウむ。……どれ見せい」
手に取つて見てゐるところへ、呂布が戻つて来た。
董卓は、気に入つたらしく、
「なる程、名剣だ。どうだこの刀は」
と、呂布へ見せた。
曹操は、すかさず、
「鞘(さや)はこれです。七宝の篏飾(カンシヨク)、何(なん)と見事ではありませんか」
と、呂布の方へ、鞘をも渡した。
呂布は無言のまゝ、刃を鞘に収めて手に預かつた。そして、
「馬を見給へ」
と促すと、曹操は、
「はつ、有難く拝領いたします」
と、急いで庭上へ出て、呂布が曳いて来た駿馬の鬣(たてがみ)を撫(な)でながら、
「あ。これは逸物(イツモツ)らしい。願はくば相国の御前(おんまへ)で、一当(ひとあ)て試し乗(のり)に乗つて見たいものですな」
といふ言葉に、董卓もつい、図に乗せられて、
「よからう。試乗してみい」
と免(ゆる)すと、曹操はハツとばかり鞍へ飛び移り、遽(にはか)に一鞭あてるや否や、丞相府の門外へ馳出して、それなり帰つて来なかつた。
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次回 → 白面郎「曹操」(四)(2024年1月29日(月)18時配信)
なお、日曜日については夕刊が休刊のため、配信はありません。