第一回 → 黄巾賊(一)
前回はこちら → 白面郎「曹操」(一)
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二十歳まで、これと云ふ職業にもつかず、家産はあるし、名門の子だし、叔父の豫言どほり困り息子で通つて来た曹操だつた。
然(しか)し、人の憎みも多い代(かは)り、一面任侠の風(フウ)もあるので、
「気の利いた人だ」
とか、又、
「曹操は話せるよ。いざと云ふ時は頼みになるからね」
と、彼を取巻く一種の人気と云つたやうなものもあつた。
さういふ友達の中でも、橋玄(ケウゲン)とか、何顒(カギヤウ)とかいふ人々は、むしろ彼の縦横な策略の才を異(イ)なりとして、
「今に、天下は乱れるだらう。一朝、乱麻となつたが最後、これを収拾するのは、よほどな人物でなければできん。或(あるひ)は後に、天下を安んずべき人間は、あゝ云つたふうな漢(をとこ)かも知れんな」
と、青年たちの集まつた場所で、真面目に云つたこともある。
その橋玄が、或る折、曹操へ向つて云つた。
「君は、まだ無名だが、僕は君を有為の青年と見てゐるのだ。折があつたら、許子将(キヨシシヤウ)といふ人と交(まじは)るがいゝ」
「子将とは、どんな人物かね」
曹操が問ふと、
「非常に人物の鑑識に長(た)けてゐる。学者でもあるし」
「つまり人相観(にんさうみ)だね」
「あんないゝ加減なものぢやない。もつと烱眼(ケイガン)な人物批評家だよ」
「おもしろい。一度訪(と)うてみよう」
曹操は一日、その許子将を訪れた。座中、弟子や客らしいのが大勢ゐた。曹操は名乗つて、彼の忌憚(キタン)ない「曹操評」を聞かしてもらはうと思つたが、子将は、冷たい眼(め)で一眄(イチベン)したのみで、卑しんでろくに答へてくれない。
「ふゝん……」
曹操も、持前の皮肉がつい鼻先へ出て、かう揶揄(ヤユ)した。
「——先生、池の魚は毎度鑑(み)ておいでらしいが、まだ大海の巨鯨は、この部屋で鑑た事がありませんね」
すると、許子将は、学究らしい薄べツたくて、黒ずんだ唇から、抜けた歯をあらはして、
「豎子(ジユシ)、何を云ふ!お前なんぞは、治世の能臣、乱世の姦雄(カンユウ)だ」
と、初めて答へた。
聞くと、曹操は、
「乱世の姦雄だと。——結構だ」
彼は、満足して去つた。
間もなく。
年二十で、初めて北都尉の職に就(つ)いた。
任は皇宮の警吏である。彼は就任早々、掟(おきて)を厳守し、犯す者は高官でも、ビシ[ビシ]罰した。時めく十常侍の蹇碩(ケンセキ)の身寄の者でも、禁を破つて、夜、帯刀で禁門の附近を歩いてゐたと云ふので、曹操に棒で殴りつけられた事があつたりした程である。
「あの弱冠の警吏は、犯すと仮借(カシヤク)しないぞ」
彼の名はかへつて高まつた。
わづかな間に、騎都尉に昇進し、そして黄巾賊の乱が地方に起ると共に、征討軍に編入され、潁川その他の地方に転戦して、いつも紅(くれなゐ)の旗、紅の鞍、紅の鎧と云ふ人目立つ備立(そなへだて)で征野を疾駆してゐたことは、曽(かつ)て、張良、張宝の賊軍を潁川の草原に火攻にした折、——そこで行き会つた劉玄徳とその旗下(キカ)の関羽、張飛たちも
(そも、何者?)
と、目を見はつたことのあるとほりである。
さうした彼。
さうした人となりの驍騎校尉(ゲウキカウヰ)曹操であつた。
王允の家に伝はる七宝の名刀を譲りうけて、董相国を刺すと誓つて帰つた曹操は、その夜、剣を抱いて床に横たはり、果たしてどんな夢を描いてゐたらうか。
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次回 → 白面郎「曹操」(三)(2024年1月27日(土)18時配信)