第一回 → 黄巾賊(一)
前回はこちら → 春園走獣(しゆんゑんそうじう)(二)
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日々、朝廷に上つて、政務にたずさはつてゐても、王允はそんなわけで、少しも勤めに気がのらなかつた。
心中ひとり怏々と悶えを抱いてゐた。
ところが或日、董相国の息のかかつた高官は誰も見えず、皆、前朝廷の旧臣ばかりが一室にゐあはせたので
(是(これ)ぞ、天の与へ)
と密かに欣(よろこ)んで、急に座中へ向つて誘ひかけた。
「実は今日は、此方の誕生日なのぢやが、何(ど)うでせう、竹裏館(チクリクワン)の別業(ベツサウ)のはうへ、諸卿お揃ひで駕(ガ)を枉(ま)げてくれませんか」
「ぜひ伺つて、公の寿(ことぶき)を祝しませう」
誰も、差支(さしつかへ)を云はなかつた。
董卓系の人間をのぞいて、水入らずに話したい気持が、期せずして、誰にも鬱してゐたからであつた。
別業の竹裏館へ、王允は先へ帰つて密かに宴席の支度をしてゐた。やがて宵から忍びやかに前朝廷の公卿(クゲ)たちが集まつた。
時を得ぬ不遇な人々の密会なので、初めから何となく、座中は湿つぽい。その上に又、酒のすゝみ出した頃、王允は、冷(つめた)い杯を見入つて、ほろりと涙をこぼした。
見咎めた客の一人が
「王公。折角、およろこびの誕生の宴だといふのに、何で落涙されるのですか」
と云つた。
王允は、長大息をして
「されば、自分の福寿も、今日の有様では、祝ふ気持にもなれんのぢや。——不肖、前朝以来、三公の一座を占め、政(まつりごと)にあづかりなから、董卓の勢ひはどうする事もできんのぢや。耳に万民の怨嗟を聞き、眼に漢室の衰亡を見ながら、何でわが寿筵(ジユエン)に酔へようか」
と云つて、指で瞼を拭つた。
聞くと一座の者も皆
「噫(あゝ)——」
と、大息して、
「こんな世に生れ合はせなければよかつた。昔、漢の皇祖三尺の剣を提(ひつさ)げて白蛇を斬り、天下を鎮め給うてより王統こゝに四百年、何ぞはからん、この末世に生れ合せようとは」
「まつたく、われわれの運も悪いものだ。こんな時勢に巡り会つたのは」
「——と云うて、少し大きな声でもして、董相国やその一類の誹謗をなせば、この首の無事は保てないし」
などゝ各々、涙やら愚痴やらこぼして燭(シヨク)も滅入るばかりであつたが、その時、末座のほうから突然
「わはゝゝゝ。あはツはゝゝゝ」
手を叩いて、誰か笑ふ者があつた。公卿たちは、びつくりして、末席を振返つた。見るとそこに若年の一朝臣が、独りで杯を挙げ、白面に紅潮を漲(みなぎ)らせて、人々が泣いたり愚痴るのを、さつきから可笑(をか)しげに眺めてゐた。
王允は、その無礼を咎め、
「誰かと思へば、そちは校尉曹操ではないか。何で笑ふか」
すると、曹操は、猶(なほ)笑つて、
「いや、すみません。然(しか)しこれが笑へずにをられませうか。朝廷の諸大臣たる方々が、夜は泣いて暁に至り、昼は悲しんで暮(くれ)に及び、寄ると触ると泣いてばかりいらつしゃる。これでは天下万民もみな泣き暮しになるわけですな。おまけに、誕生祝ひといふのに、わざ[わざ]集まつて、又泣上戸の泣き競べとは——。わはゝゝゝ。失礼ですが、どうも可笑しくつて、笑ひが止まりませんよ。あはゝゝ、あはゝゝ」
「やかましいつ。汝はそもそも、相国曹参(サウサン)が後胤(コウイン)で、四百年来、代々漢室の大恩をうけて来ながら、今の朝廷の有様が、悲しくないのか。われわれの憂ひが、そんなに可笑しいのか。返答に依つては免(ゆる)さんぞ」
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次回 → 春園走獣(しゆんゑんそうじう)(四)(2024年1月24日(水)18時配信)