第一回 → 黄巾賊(一)
前回はこちら → 春園走獣(しゆんゑんそうじう)(一)
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「どうしたか」
董卓は美酒を飲みながら、李儒の吉左右(キツサウ)を待つてゐた。
やがて李儒は、袍(ハウ)を血まみれに汚して戻つて来たが、いきなり提(さ)げてゐた二つの首を突出して、
「相国、御命令通り致して来ました」
と、云つた。
弘農王の首と、何太后の首であつた。
二つとも首は眼をふさいでゐたが、その眼が刮(くわツ)と開いて、今にも飛びつきさうに、董卓には見えた。
さすがに眉をひそめて、
「そんな物、見せんでもいゝ。城外へ埋めてしまへ」
それから彼は、日夜、大酒を仰飲(あほ)つて、禁中の宮内官といい、後宮の女官といひ、気に入らぬ者は立ち所に殺し、夜は天子の床(しやう)に横たはつて春眠を貪(むさぼ)つた。
或る日。
彼は陽城(ヤウジヤウ)を出て、四頭立ての驢車に美人を大勢乗せ、酔うた彼は、馭者の真似をしながら、城外の梅林の花ざかりを逍遙してゐた。
ところが、ちやうど村社の祭日だつたので、何も知らない農民の男女が晴れ着を飾つて帰つて来た。
董相国は、それを見かけ、
「農民のくせに、この晴日を、田へも出ずに、着飾つて歩くなど、不届きな怠け者だ。天下の百姓の見せしめに召捕へろ」
と、驢車の上で、急に怒り出した。
突然、相国の従兵に追はれて、若い男女は悲鳴をあげて逃げ散つた。そのうち逃げ遅れた者を兵が拉して来ると、
「牛裂きにしろ」
と、相国は威猛高(ゐたけだか)に命じた。
手脚に縄を縛(くゝ)りつけて、二頭の奔牛(ホンギウ)にしばりつけ、東西へ向けて鞭打つのである。手脚を裂かれた人間の血は、梅園の大地を紅(くれなゐ)に汚した。
「いや、花見よりも、よほど面白かつた」
驢車は黄昏に陽城へ向つて帰還しかけた。
するとある巷(ちまた)の角から、
「逆賊ツ」
と、喚(おめ)いて、不意に驢車へ飛びついて来た漢(をとこ)がある。
美姫たちは、悲鳴をあげ、驢は狂ひ合つて、端(はし)なくも、大混乱をよび起した。
「何するか、下司(ゲス)つ」
肥大な体軀の持主である相国は、身うごきは非常に敏速を缺(か)くが、力は怖(おそろ)しく強かつた。
精悍な刺客の男は、驢車へ足を踏みかけて、短剣を引抜き、相国の大きな腹を目がけて勢いよく突ツかけて行つたのであつたが、董相国にその剣を叩き落され、慥乎(シツカ)と、抱きすくめられてしまつたので、何(ど)うする事も出来なかつた。
「曲者(しれもの)め。誰に頼まれた」
「残念だ」
「名を申せ」
「……」
「誰か、叛逆を企む奴らの与党だらう。さあ、誰に頼まれたか」
すると、苦しげに、刺客はさけんだ。
「叛逆とは、臣下が君に叛(そむ)くことだ。おれは貴様などの臣下であつた覚えはない。——おれは朝廷の臣、越騎校尉(ヱツキカウヰ)の伍孚(ゴフ)だつ」
「斬れツ、こいつを」
驢車から蹴落すと共に、董卓の武士たちは伍孚の全身に無数の刃(やいば)と槍を加へて、塩辛のやうにしてしまつた。
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都を落ちて、遠く渤海郡(河北省)の太守に封じられた袁紹は、その後、洛陽の情勢を聞くにつけ、鬱勃としてゐたが、遂に矢も楯もなくなつて、在京の同志で三公の重職にある司徒王允へ、密かに書を飛ばし、激越な辞句で奮起を促して来た。
だが、王允は、その書簡を手にしてからも、日夜心で苦しむだけで、董相国を討つ計は何も持たなかつた。
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次回 → 春園走獣(しゆんゑんそうじう)(三)(2024年1月23日(火)18時配信)