第一回 → 黄巾賊(一)
前回はこちら → 赤兎馬(六)
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まだ若い廃帝は、明け暮れ泣いてばかりゐる母の何太后と共に、永安宮の幽居に深く閉ぢ籠(こ)められたまゝ、春を空(むな)しく、月にも花にも、たゞ悲しみを誘はるゝばかりだつた。
董卓は、そこの衛兵に、
「監視を怠るな」
と厳命しておいた。
見張りの衛兵は、春の日永(ひなが)を、欠伸(あくび)してゐたが、ふと幽楼(ユウロウ)の上から、哀しげな詩(うた)の声が聞えて来たので、聞くともなく耳を澄ましてゐると、
春は来ぬ
けむる嫩草(わかぐさ)に
裊々(デフデフ)たり
双燕は飛ぶ
ながむれば都の水
遠く一すぢ青し
碧雲(ヘキウン)深きところ
是(これ)みなわが旧宮殿
堤上(テイジヤウ)、義人はなきや
忠と義とに依つて
誰か、晴らさむ
わが心中の怨(うらみ)を——
衛兵は、聞くと、その詩を覚え書にかいて、
「相国。廃帝の弘農王が、こんな詩を作つて歌つてゐました」
と、密告した。董卓は、それを見ると、
「李儒はゐないか」
と呼び立てた。そして、その詩を李儒に示して、
「これを見ろ、幽宮にをりながら、こんな悲歌を作つてゐる。生かしておいては必ずや後の害にならう。何太后も廃帝も、おまへの処分にまかせる。殺して来い」
と、いひつけた。
「承知しました」
李儒は元より暴獣の爪のやうな男だ。情もあらばこそ、すぐ十人ばかりの屈強な兵を連れて、永安宮へ馳せつけた。
「どこに居るか、王は」
彼はづか[づか]楼上へ登つて行つた。折ふし弘農王と何太后とは、楼の上で春の憂ひに沈んでをられ突然、李儒のすがたを見たので恟(ぎよ)つとした容子(ようす)だつた。
李儒は笑つて、
「何もびつくりなさる事はありません。この春日を慰め奉れと、相国から酒をお贈り申しに来たのです。これは延寿酒(エンジユシユ)といつて、百歳の齢(よはひ)を延ぶる美酒です。さあ一盞(サン)おあがりなさい」
携へて来た一壺の酒を取り出して杯(さかづき)を強(し)ひると、廃帝は、眉をひそめて、
「それは毒酒であらう」
と、涙をたゝへた。
太后も顔を振つて、
「相国がわたし達へ、延寿酒を贈られるわけはない。李儒、これが毒酒でないなら、そなたがまづ先に飲んでお見せなさい」
と、云つた。
李儒は、眼(まなこ)を怒らして、
「何、飲まぬと。——それならば、この二品をお受けなさるか」
と、練絹(ねりぎぬ)の縄と短刀とを、突きつけた。
「……おゝ。我に死ねとか」
「いづれでも好きなほうを選ぶがよい」
李儒は冷然と毒づいた。
弘農王は、涙の中に、
噫(あゝ)、天道は易(かは)れり
人の道もあらじ
万乗の位をすてゝ
われ何ぞ安からん
臣に迫られて命(メイ)はせまる
たゞ潸々(サン[サン])、涙あるのみ
と、悲歌をうたつてそれへ泣きもだへた。
太后は、はつたと李儒を睨(にら)めつけて、
「国賊!匹夫(ヒツプ)!おまへ達の滅亡も、決して長い先ではありませぬぞ。——あゝ兄の何進が愚(おろか)なため、こんな獣共を都へ呼び入れてしまつたのだ」
罵り狂ふのを、李儒は喧(やか)ましいとばかり、その襟がみを摑(つか)み寄せて、高楼の欄から投げ落してしまつた。
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次回 → 春園走獣(しゆんゑんそうじう)(二)(2024年1月22日(月)18時配信)
なお、日曜日については夕刊が休刊のため、配信はありません。