第一回 → 黄巾賊(一)
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洛陽の都会人は、宴楽が好きである。わけて朝廷の百官は皆、舞楽をたしなみ、酒を愛し、長夜に亘(わた)るも辞さない粋客(スヰキヤク)が多かつた。
(——今日は、この間の饗宴の時よりも、だいぶ和(なご)やかに浮いてゐるな)
董卓は、大会場の空気を見まはして、さう察してゐた。
時分は好(よ)し——と、
「諸卿!」
彼は、卓から起つて、一場の挨拶を試みた。
初めの演舌は、至極、主人側としてのお座なりなものであつたから、人々はみな一斉に酒盞(シユサン)を挙げて、
「謝す。謝す」
と、声を和し、拍手の音も、暫(しば)し鳴りも止(や)まなかつた。
董卓は、その沸騰ぶりを、自分への人気と見て、
「さて。——いつぞやは遂に諸公の御明判を仰いで議決するまでに至らなかつたが、けふはこの盛会と吉日を卜(ボク)して、過日、未解決に了(をは)つた大問題をぜひ一決して、更に盞(サン)を重ねたいと思ふのであるが、諸公のお考へは如何であるか」
と、現皇帝の廃位と陳留王の即位推戴の事を、突然、云ひ出した。
熱湯が冷めたやうに、饗宴の席は、一時にしんとしてしまつた。
「…………」
「…………」
誰も彼も、この重大問題となると、啞(をし)のやうに黙つてしまつた。
すると、一つの席から、
「否(いな)!否!」
と叫んだ者がある。
中軍の校尉袁紹であつた。
袁紹は、敢然、反対の口火を切つて云つた。
「借問(シヤモン)する!董将軍。——あなたは何が為(ため)に、好んで平地に波瀾を招くか。一度ならず二度までも、現皇帝を廃して陳留王をして御位に代らしめんなどゝ、陰謀めいた事を提議されるのか」
董卓は、剣に手をかけて、
「だまれつ。陰謀とは何か」
「廃帝の議を密かに計るのが陰謀でなくて何だ」
袁紹も負けずに呶鳴つた。
董卓はまツ青になつて、
「いつ密議したか。朝廷の百官を前において自分は信ずる所を云つてをるのだ」
「この宴は私席である。朝議を議するならば、なぜ帝の玉座の前で、猶(なほ)多くの重臣や、太后の御出座をも仰いでせんか」
「えいつ、喧(やかま)しいつ。私席で嫌なら、汝より先(ま)づ去れ」
「去らん。おれは、陰謀の宴に頑張つて、誰が賛成するか、監視してやる」
「云つたな、貴様はこの董卓の剣は切れないと思つてをるのか」
「暴言だつ。——諸君つ、今の声を、何(なん)と聞くか」
「天下の権は、余の自由だ。余の説に不満な輩(やから)は、袁紹と共に、席を出て行けつ」
「ああ。妖雷声をなす。天日も真つ晦(くら)だ」
「世まひ言を申してをると、一刀両断だぞ。去れつ、去れつ、異端者め」
「誰が居るか、こんな所に」
袁紹は、身を慄(ふる)はせながら、席を蹴つて飛び出した。
その夜のうち、彼は、官へ辞表を出して、遠く冀州(キシウ)の地へ奔(はし)つてしまつた。
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次回 → 赤兎馬(五)(2024年1月18日(木)18時配信)