第一回 → 黄巾賊(一)
前回はこちら → 赤兎馬(二)
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「……よしつ」
呂布は大きく頷いた。
何事かを、その耳へ囁いた李粛は、彼の怪しくかゞやく眼を見つめながら、側を離れて
「善は急げといふ。御決心がついたら直ぐやり給へ。予は、こゝで酒を酌んで、吉左右(キツサウ)を待つてゐよう」
と、煽動した。
呂布は、直に、出て行つた。
そして営の中軍へ入つて、丁原の幕中を窺つた。
丁原は、燈火(ともしび)をかゝげて、書物を見てゐたが、何者か入つて来た様子に
「誰だつ」
と、振向いた。
血相の変つた呂布が剣を抜いて突つ立つているので、愕然と立ち、
「呂布ではないか。何事だ、その血相は」
「何事でもない。大丈夫たるもの何(なん)で汝が如(ごと)き凡爺(ボンヤ)の子となつて朽(く)ちん」
「ばツ、ばかつ。もう一度云つてみい」
「何を」
呂布は、躍りかゝるや否や、一刀の下に、丁原を斬り伏せ、その首を落した。
黒血は燈火を消し、夜は惨として暗澹であつた。
呂布は、狂へる如く、中軍に立つて、
「丁原を斬つた。丁原は不仁なる故(ゆゑ)に、是(これ)を斬つた。志ある者はわれに従(つ)け。不服な者は、我を去れつ」
と、大呼して馳けた。
中軍は騒ぎ立つた。去る者、従ふ者、混乱を極めたが、半ばは、ぜひなく呂布について止(とゞ)まつた。
この騒ぎが揚ると、
「大事成れり」
と、李粛は、手を打つてゐた。
やがて直(たゞち)に、呂布を伴ひ、董卓の陣へ帰つて来て、事の次第を報告すると
「でかしたり李粛」
と、董卓のよろこびも亦(また)、非常なものであつた。
翌日、特に、呂布の為(ため)に盛宴をひらいて、董卓自身が出迎へるといふほどな歓待ぶりであつた。
呂布は、贈られた所の赤兎馬に跨がつて来たが、鞍を下りて
「士はおのれを知る者の為に死すと云ひます。今、暗きを捨てゝ明らかなるに仕(つか)ふ日に会ひ、こんな欣(うれ)しい事はありません」
と、拝跪(ハイキ)して云つた。
董卓も亦(また)
「今、大業の途に、足下のごとき俊猛をわが軍に迎へて、旱苗(カンベウ)に雨を見るやうな気がする」
と、手を取つて、酒宴の席へ迎へ入れた。
呂布は、有頂天になつた。
しかも亦(また)、黄金の甲(よろひ)と錦袍(キンハウ)とをその日の引出物として貰つた。恐るべき毒にまはされて、呂布は有頂天に酔つた。好漢、惜(をし)むらくは眼前の慾望に眩(くら)んで、遂に、青雲の大志を踏み誤つてしまつた。
× ×
× ×
呂布は、檻(をり)に入つた。
董卓はもう怖ろしい者あるを知らない。その威勢は、旭日のやうに旺(さかん)だつた。
自分は、前将軍を領し、弟の董旻(トウビン)を、左将軍に任じ、呂布を騎都尉中郎将の都亭侯(トテイコウ)に封(ほう)じた。
思ふ事が出来ない事はない。
——が、まだ一つ、残つてゐる問題がある。帝位の廃立である。李儒は又、側にあつて、頻(しき)りにその実現を彼にすゝめた。
「よろしい。今度は断行しよう」
董卓は、省中に大饗宴を催して再び百官を一堂に招いた。
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次回 → 赤兎馬(四)(2024年1月17日(水)18時配信)