第一回 → 黄巾賊(一)
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その時、呂布はふと耳を欹(そばだ)てゝ、李粛へ訊いた。
「今、陣外に嘶(いなゝ)いたのは、君の乗馬か、啼声だけでもわかるが、素晴らしい名馬を持つてゐるぢやないか」
「いや、外に繫いであるのは、自分の乗用ではない。足下(ソツカ)に進上する為(ため)に、わざ[わざ]従者に曳かせて来たのだ。気に入るか何(ど)うか、見てくれ給(たま)へ」
と、外へ誘つた。
呂布は、赤兎馬を一見すると、
「これは稀代の逸駿だ」
と驚嘆して、
「こんな贈り物を受けても、おれは何も酬(むく)いるものがないが」
と、陣中ながら酒宴を設けて歓待に努める容子は、心の底から欣(よろこ)んでゐるふうだつた。
酒、酣(たけなは)の頃を計つて、
「だが呂布君。折角、君に贈つた馬だが、赤兎馬の事は、足下の父がよく知つてをるから、必ず君の手から奪(と)り上げてしまふだらう。それが残念だな」
李粛が云ふと、
「は……。何を云ふのか、君はだいぶ酔つて来たな」
「どうして」
「吾輩の父は、もう世を去つてこの世に亡(な)い人ぢやないか。何でおれの馬を奪はう」
「いや[いや]。わしの云ふのは足下の実父ではない。養父の丁原の事だ」
「あ。養父のことか」
「思へば、足下ほどな武勇才略を備へながら、墻(かき)の内の羊みたいに飼はれてゐるのは、実に惜(をし)いものだ」
「けれど、父亡き後、久しく丁原の邸(やしき)に養はれて来た身だから、今更、何(ど)うにもならん」
「成らん? ……さうかなあ」
「おれだつて、若いし、大いに雄才を伸ばしてみたい気もするが」
「そこだ、呂布君。良禽(リヤウキン)は木を選んで棲(す)むといふ。日月は遷(うつ)りやすし。空しく青春の時を過すのは愚かではないか」
「む、む。……では李君。貴公のみるところでは、今の朝臣の中で、英雄とゆるしてよい人は、一体誰だと思ふか」
李粛は一言の下に、
「それやあ、董卓将軍さ」
と、云つた。
「賢を敬ひ、士に篤く、寛仁徳望を兼備してゐる英傑といへば董卓を措(お)いては、他に人物はない。必ずや、将来大業を成す人はまづあの将軍だらうな」
「さうかなあ。……やはり」
「足下は何(ど)う思ふ」
「いや、実はこの呂布も、日頃さう考へてゐるが、何しろ丁原と仲が悪し、それに縁もないので——」
聞きもあへず李粛は、携へて来た金銀珠玉をそれに取出して、
「これこそ、その董卓公から、貴公へ礼物として送られた物だ。実は、予はその使(つかひ)として来たわけだ」
「えつ。これを」
「赤兎馬も御自身の愛馬で、一城とも取換なられぬ——と言つて居られるほど秘蔵してゐた馬だが、御辺の武勇を慕つて、どうか上げてくれといふお言葉じゃ」
「ああ。それ迄(まで)に、この呂布を愛し給ふか。何を以て、おれは知己の篤い志に酬いたらいゝのか」
「いや、それは易い事だ。耳を借(か)し給へ」
と、李粛は摺(す)り寄つた。
陣帳風暗く、夜は更けかけてゐた。兵はみな睡(ねむ)りに落ち、時折、馴(な)れぬ厩(うまや)に繫がれた赤兎馬が、静寂(しゞま)を破つて、蹄(ひづめ)の音をさせてゐるだけだつた。
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次回 → 赤兎馬(三)(2024年1月16日(火)18時配信)