第一回 → 黄巾賊(一)
前回はこちら → 蛍の彷徨(さまよ)ひ(三)
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「敵か?」
「抑(そも)、何人(なにびと)の軍ぞ」
帝を初め、茫然、疑ひ怖れてゐるばかりだつたが、時に袁紹あつて、鹵簿(ロボ)の前へ馬をすゝめ
「それへ来るは、何者の軍隊か。帝今、皇城に還(かへ)り給(たま)ふ。道を禦(ふさ)ぐは不敬ではないか」
と、大喝した。
すると
「おうつ。吾なり」
と吠えるが如き答が、正面へ来た軍の真ん中に轟き聞えた。
千翻(センポン)の旗、錦繡(キンシウ)の幡旗(ハンキ)、さつと隊を開いたかと見れば駿馬は龍爪(リウサウ)を搔いて、堂々たる鞍上の一偉夫を、袁紹の前へと馳け寄せて来た。
これなん先頃から洛陽郊外の蓮池(レンチ)に兵馬を駐(とゞ)めたまゝ、何進が再三召し呼んでも動かなかつた惑星の人——西涼(セイリヤウ)の刺史(シシ)董卓であつた。
董卓、字(あざな)は仲穎(チウエイ)、隴西臨洮(ラウセイリンタウ)(陝西省)の生れである。身長(みのたけ)八尺、腰の太さ十囲といふ。肉脂豊重(ニクシホウチヨウ)、眼細く、豺智(サイチ)の光り針がごとく人を刺す。
袁紹が
「何者だつ」
と、咎めたが、部将などは眼中にないといつた態度で
「天子はいづこに在(おは)すか」
と、鹵簿の間近まで寄つて来る様子なのだ。帝は、戦慄されて、お答へもなし得ないし、百官も皆、怖れわなゝき、遉(さすが)の袁紹さへも、その容態の立派さに、呆つ気にとられて阻(はゞ)めもできなかつた。
すると、帝の御駕のすぐうしろから、
「ひかえろッ」
涼やかに叱つた者がある。
凜たる音声に、董卓も思はず駒をすこし退(ひ)いて、
「何。控へろと。——さう云ふ者は誰だつ」
と眼をみはつた。
「おまへこそ、名をいへ」
かう云つて馬を前へ出してゐたのは、皇弟の陳留王であつた。帝よりも年下の紅顔の少年なのである。
「……あつ。皇弟の陳留王でゐらつしやいますな」
董卓も、気がついて、あわてゝ、馬上で礼儀をした。
陳留王は、飽(あく)まで頭を高く
「さうだ。そちは誰だ」
「西涼の刺史董卓です」
「その董卓が、何しに来たか。——聖駕をお迎へに参つたのか、それとも奪ひ取らうといふ気で来たか」
「はつ……」
「いづれだ!」
「お迎へに参つたのでござる」
「お迎へに参りながら、天子のこれにましますに、下馬せぬ無礼者があるかつ。なぜ、馬を降りん!」
身なりは小さいが、王の声は実に峻烈であつた。威厳に打たれたか、董卓は二言もなく、あわてゝ馬からとび降りて、道の傍(かたは)らに退き、謹んで帝の車駕を拝した。
陳留王は、それを見ると、帝に代つて
「大儀であつた」
と、董卓へ言葉を下した。
鹵簿は難なく、洛陽へさして進んだ。心ひそかに舌を巻いたのは董卓であつた。天性備はる陳留王の威風にふかく胆を奪はれて
「これは、今の帝を廃して、陳留王を御位(みくらゐ)に立てたはうが……?」
と、いふ大野望が、早くもこの時、彼の胸には芽を兆してゐた。
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次回 → 呂布(一)(2024年1月11日(木)18時配信)