第一回 → 黄巾賊(一)
前回はこちら → 蛍の彷徨(さまよ)ひ(二)
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崔毅の家をかこむ木立の空に、炊煙があがつてゐた。
帝と陳留王のふたりを匿(かく)しておいた茅屋(あばらや)の板戸を開いて、崔毅は
「田舎です、何もありませんが、飢(うゑ)をおしのぎ遊ばすだけと思し召して、この粥など一時召上つてゐてください」
と、食事を捧げた。
帝も、皇弟も、浅ましきばかりがつ[がつ]と粥をすゝられた。
崔毅は涙を催して
「安心して、お眠りください。外はてまへが見張つてをりますから」
と、告げて退がつた。
荒れた傾(かし)いだ荘院の門に立つたまゝ、崔毅は半日も立つてゐた。
すると、戞々(カツカツ)と、馬蹄の音が木立の下を踏んで来る。
「誰か?」
どきつとしながらも、何喰はぬ顔して、急に箒(はうき)の手をうごかしてゐた。
「おい[おい]、家の主、何か喰ふ物はないか。湯なと一杯恵んでくれい」
声に振向くと、それは馬上の閔貢であつた。
崔毅は、彼の馬の鞍に結(ゆ)ひつけてある生々しい首級を見て
「お易いことです。——ですが豪傑、その首は一体、誰の首ですか」
閔貢は問はれると
「知らずや、これは十常侍張譲などゝ共に、久しく廟堂に巣くつて、天下の害をなした段珪といふ男だ」
「えつ、では貴方はどなたですか」
「河南の掾史閔貢といふ者だが、昨夜来、帝のお行方が知れないので、方々お捜し申してをるのだ」
「あゝ、では!」
崔毅は、手をあげて、奥のはうへ転(まろ)んで行つた。
閔貢は怪しんで、馬をつなぎ、後から駈けて行つた。
「お味方の豪傑が、お迎へにやつて来ましたよ」
崔毅の声に、藁の上で眠つてゐた帝と陳留王は、夢かとばかり狂喜した。そして猶(なほ)、閔貢の拝座するすがたを見ると、欣(うれ)し泣きに抱き合つて号泣された。
帝も帝におはさず
王また王に非ず
千乗万騎走るなる
北邙の草野、夏茫々
——思ひあはせればこの夏の初め頃から、洛陽の童女のなかにこんな歌が流行(はや)つていた。天に口なく、無心の童歌をして、今日の事を豫言してゐたものだらうか。
「天下一日も帝なかるべからずです。さあ、一刻も早く、都へ御還幸なされませ」
閔貢のことばに、崔毅は、自分の厩から、一匹の瘦馬(サウバ)を曳(ひ)いて来て、帝に献上した。
閔貢は、自分の馬に、陳留王を乗せて、二騎の口輪をつかみ、門を出て、諸所へ散らかつてゐる兵をよび集めた。
二、三里ほど来ると
「おゝ、帝は御無事でおはしたか」
校尉袁紹が馳せ出会ふ。
「又、司馬(シバ)王允(ワウイン)、太尉(タイヰ)楊彪(ヤウベウ)、左軍校尉(サグンカウヰ)淳于瓊(ジユンウケイ)、右軍の趙萌(テウバウ)、同じく後軍校尉(ゴグンカウヰ)鮑信(ホウシン)などがめい[めい]数百騎をひいて来合せ、帝にまみえて、みな哭(な)いた。
「還御を盛(さかん)にし、洛陽の市民にも安心させん」
と、段珪の首を、早馬で先へ送り、洛陽の市街に曝(さら)し首として、同時に、帝の御無事と還幸を布告した。
かくて帝の御駕(ギヨガ)は、郊外の近くまでさしかゝつて来た。すると忽(たちま)ち彼方(かなた)丘の陰から旺(さかん)なる兵気馬塵が立ち昇り、一隊の旌旗(セイキ)、天を蓋(おほ)つて見えたので
「や、や?」
とばかり、随臣の将卒百官、みな色を失つて立ち恟(すく)んだ。
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次回 → 蛍の彷徨(さまよ)ひ(四)(2024年1月10日(水)18時配信)