第一回 → 黄巾賊(一)
前回はこちら → 蛍の彷徨(さまよ)ひ(一)
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やがて河を越えて驟雨のように馳け去つて行つたのは、河南の中部掾史(チウブエンシ)、閔貢(ビンコウ)の兵馬であつたが、何も気づかず、瞬くまに闇に消え去つてしまつた。
「…………」
しゆく、しゆく……と少帝は草むらの中で泣き声をもらした。
皇弟陳留王は、わりあひに慥乎(しつかり)した声で、
「あゝ飢餓をお覚えになりましたね。御もつともです。私も、今朝から水一滴のんでゐませんし、馴れない道を、夢中で歩いて来たので、身を起さうとしてもたゞ身が顫(ふる)へるばかりです」
と、慰めて——
「けれど、この河原の草の中で、このまゝ夜を明かすこともできません。殊(こと)に、ひどい夜露、お体にもさはります。——歩けるだけ歩いてみませう。どこか民家でもあるかもしれません」
「…………」
帝は微かにうなづいた。
二人は、衣の袂(たもと)と袂とを結び合せ、
「迷はないやうに」
と、闇を歩いた。
茨か、野棗(のなつめ)か、荊(とげ)ばかりが脚を刺した。帝も陳留王も生れて始めて、かうした世のある事を知つたので、生きた気もちもなかつた。
「あゝ、蛍が……」
陳留王はさけんだ。
大きな蛍の群が、風のまに[まに]一かたまりになつて、眼のまへをふはふは飛んでゆく、蛍の光でも非常に心づよくなつた。
夜が明けかけた——
もう歩けない。
新帝はよろめいたまゝ起き上らなかつた。陳留王も、
「あゝ」
と、腰をついてしまつた。
昏々と、暫(しばら)くは何もしらなかつた。誰か、そのうちに起す者がある。
「どこから来た?」
と、訊ねるのである。
見まはすと、古びた荘院の土塀が近くにある。そこの主(あるじ)かもしれない。
「いつたい、そなた達は、何人(なにびと)のお子か」
と、重ねて問ふ。
陳留王は、まだ慥乎(しつかり)した声を持つてゐた。帝を指さして、
「先頃、御即位されたばかりの新帝陛下です。十常侍の乱で、宮門から遁れて来たが、侍臣たちはみな散々(ちり[ぢり])になり、漸(やうや)く、私がお供をしてこれまで来たのです」
と、云つた。
主は、仰天して、
「そして、貴方は」
と、眼をまろくした。
「わしは、帝の弟、陳留王といふ者である」
「げつ、では真の……?」
主は、驚きあわてた様で、帝を扶(たす)けて、荘院のうちへ迎へ入れた。古びた田舎邸(ゐなかやしき)である。
「申しおくれました。自分儀は、先朝にお仕へ申していた司徒(シト)崔烈(サイレツ)の弟で、崔毅(サイキ)といふ者であります。十常侍の徒輩(トハイ)が、餘りにも賢を追ひ邪を容れて、目を蔽(おほ)ふばかりな暴状に、官吏が嫌になつて、野に隠れてゐた者でございます」
主は改めて礼を施した。
その夜明け頃——
河へ投身して死んだ張譲を見捨てゝ、段珪はひとり野道を逃げ惑うて来たが、途中、閔貢の隊に見つかつて、天子の行方を訊かれたが、知らないと答へると、
「不忠者め」
と、閔貢は、馬上から一颯(イツサツ)に斬つてしまつた。そしてその首を、鞍に結びつけ、兵へ向つて、
「なにせい、この地方に来られたに違ひない」
と、捜査の手分けを命じ、自身もたゞ一騎馳け、彼方此方(あなたこなた)と、血眼(ちまなこ)で尋ねあるいてゐた。
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次回 → 蛍の彷徨(さまよ)ひ(三)(2024年1月9日(火)18時配信)