第一回 → 黄巾賊(一)
前回はこちら → 舞刀飛首(ぶたうひしゆ)(五)
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何進の幕将で中軍の校尉袁紹は、何進の首を抱いて、
「おのれ」
と、青鎖門を睨んだ。
同じ何進の部下、呉匡(ゴキヤウ)も、
「おぼえてゐろ」
と、怒髪を逆だて、宮門に火を放つと五百の精兵を駆つて、雪崩(なだ)れこんだ。
「十常侍をみなごろしにしろ」
「宦官どもを焼(やき)つくせ」
華麗な宮殿は、忽(たちま)ち土足の暴兵に占領された。炎と、黒煙と、悲鳴と矢うなりの旋風(つむじかぜ)であつた。
「汝(うぬ)もかつ」
「おのれもかつ」
宦官と見た者は、見つかり次第に殺された。宮中深く棲んでゐた十常侍の輩なので、兵はどれが誰だかよく分らないが、髯(ひげ)の無い男だの、俳優のやうににやけて美装してゐる内官は、みんなそれと見なして首を刎ねたり突き殺したりした。
十常侍趙忠や郭勝などゝいう連中も、西宮翠花門(セイキウスイクワモン)まで逃げ転んで来たが、鉄弓に射止められて、虫の息で這つてゐるところを、ずたずたに斬り刻まれ、手足は翠花楼の大屋根にゐる鴉(からす)へ投げられ、首は西苑の湖中へ跳(はね)とばされた。
天日も晦(くら)く、地は燃ゆる。
女人たちの棲む後宮の悲鳴は、雲に谺(こだま)し地底まで届くやうだつた。
その中を、十常侍一派の張譲、段珪(ダンケイ)のふたりは、新帝と、何太后と、新帝の弟にあたる協皇子——帝が即位してからは、陳留王(チンリウワウ)と称(い)はれてゐる——さう三人を黒煙のうちから救け出して、北宮翡翠門(ホクキウヒスイモン)から逸早(いちはや)く逃げ出す準備をしてゐた。
ところへ。
戈(ほこ)を引つ提(さ)げ、身を鎧ひ、悍馬に泡を嚙ませて来た一老将がある。宮門に変ありと、火の手を見ると共に馳せつけて来た中郎将盧植であつた。
「待てつ毒賊。帝を擁し、太后を獲(と)つて、何地(いづち)へ赴(ゆ)かんとするかつ」
大喝して、馬上から降りるまに、張譲たちは、新帝と陳留王の車馬に鞭打つて逃げてしまつた。
たゞ何太后だけは、盧植の手にひき留められた。
折ふし、宮中各所の火災を、懸命に部下を指揮して消し止めてゐた校尉曹操に出会つたので、ふたりは、
「新帝の御帰還ある迄(まで)、しばし、大権をお執りくだされたい」
と請ひ、一方諸方に兵を派して、新帝と陳留王の後を追はせた。
洛陽の巷(ちまた)にも火が降つてゐた。兵乱は今にも全市に及ぶであらうと、家財商品を負つて避難する民衆で混乱は極まつてゐる。その中を——張譲等の馬と、新帝、皇弟を乗せた輦(くるま)は、逃げまどふ老父を轢(ひ)き、幼子を蹴とばして、躍るが如く、城門の郊外遠くまで逃げ落ちて来た。
けれど、輦の車輪は壊れ、張譲等の馬も傷ついたり、泥濘(ぬかるみ)へ脚を入れたりして、みな徒歩にならなければならなかつた。
「——噫(あゝ)」
帝は、時々、蹌(よろ)めいた。
そして大きく嘆息された。
顧みれば、洛陽の空は、夜になつてまだ赤かつた。
「もう少しの御辛抱です」
張譲等は、帝を離すまいとした。帝を擁する事が自分等の強味だからである。
草原の果てに、北邙山(ホクボウザン)が見えた。夜は暗い。もう三更(サンカウ)に近いであろう。すると一隊の人馬が趁(お)つて来た。張譲は観念した。追手と直感したからである。
「もうだめだつ」
無念を叫びながら、張譲は、自ら河に飛込んで自殺してしまつた。帝と、帝の弟の陳留王とは、河原の草の裡(うち)へ抱き合つて、暫(しば)し近づく兵馬に耳をすまして居られた。
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次回 → 蛍の彷徨(さまよ)ひ(二)(2024年1月8日(月)18時配信)
なお、日曜日については夕刊が休刊のため、配信はありません。