第一回 → 黄巾賊(一)
前回はこちら → 舞刀飛首(ぶたうひしゆ)(四)
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【前回迄の梗概】
◇…後漢の建寧元年のことである。涿県楼桑村の青年劉備玄德は折柄各地に蜂起した黄巾賊を平げ漢の景帝の末である自家を再興しようと張飛、関羽の二盟友を得て義兵を挙げ、各地に転戦して大功をたて平原県の礼となり時の来る日を待つた。
◇…果たせるかな、中平六年の夏、霊帝の洛陽宮に薨ずるや大将何進は妹である何后の子辨皇子を新帝とし校尉曹操、司隷校尉袁紹等の言を入れ一挙反対党である十常侍の一味を滅ぼさうと諸国に檄を飛ばした。
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一方。宮城内の十常侍等も、何進が諸国へ檄をとばしたり、檄に応じて董卓などが、蓮池附近にまで来て駐軍してゐるなどの大事を、知らないでゐる筈はない。
「さてこそ」
と、彼等はあわてながらも対策を講ずるに急だつた。そこで張譲等はひそかに手配にかゝり、刀斧鉄弓(タウフテツキウ)を携へた禁中の兵を、嘉徳門(カトクモン)や長楽宮(チヤウラクキウ)の内門にまでみつしり伏せておいて、何太后をだまし何進を召すの親書を書かせた。
宮門を出た使者は平和時のやうに、わざと美車金鞍(ビシヤキンアン)を燦(かゞや)かせ、何も知らぬ顔して、書を何進の館門へとゞけた。
「いけません」
何進の側臣たちは、即座に十常侍等の陥穽を看破つて諫めた。
「太后の御詔(ゴセウ)とて、この際、信用はできません。危い限りです。一歩も御門外に出ることはなさらぬほうが賢明です」
かう云はれると、それに対して自分に無い器量をも見せたいのが何進の病であつた。
「何をいふ。宮中の病廃を正し、政権の正大を期し、やがては天下に臨まんとするこの何進である。十常侍等の輩(ハイ)が我に何かせん。彼等ごとき廟鼠輩(ベウソハイ)を怖れて、何進門を閉ざせりと聞えたら天下の英雄共も、かへつて余を見縊(みくび)るであらう」
変にその日は強がつた。
直(す)ぐ車騎の用意を命じ、その代り鉄甲の精兵五百に、物々しく護衛させて、参内に出向いた。果(はた)せるかな、青鎖門(セイサモン)まで来ると
「兵馬は禁門に入ることならん。門外にて待ちませい」
と隔てられ、何進は、数名の従者だけつれて入つた。それでも彼は傲然、胸を反(そ)らし、威風を示して歩いて行つたが、嘉徳門の辺りまでかゝると
「豚殺し待てつ」
と、物陰から呶鳴られて、呀(あ)つとたじろぐ間に、前後左右、十常侍一味の軍士たちに取巻かれてゐた。
躍り出た張譲は
「何進つ、汝は元来、洛陽の裏町に、豚を屠殺して、辛くも生きてゐた貧賤ではなかつたか。それを、今日の栄位まで昇つたのは、抑々(そも[そも])誰のおかげと思ふか。われ[われ]が陰に陽に、汝の妹を天子に薦(すゝ)め奉り、汝をも推挙したおかげであるぞ。——この恩知らずめ!」
と、面罵した。
何進は、真ツ蒼になつて
「しまつた!」
と口走つたが、時すでに遅しである。諸々の宮門はみな閉ざされ、逃げまはるにも刀斧鉄槍(タウフテツサウ)、身を囲んで、一尺の隙もなかつた。
「——わツつ。だつ!」
何進は何か絶叫した。空へでも飛び上がつてしまふ気であつたか躍り上つて、体を三度ほどぐる[ぐる]旋(まは)した。張譲は、跳びかゝつて
「下郎つ。思ひ知つたか」
と、真二つに斬りさげた。
青鎮門外ではわい[わい]と騒がしい声が起つてゐた。何かしら宮門の中にをかしな空気を感じ出したものとみえ
「何将軍はまだ退出になりませんか」
「将軍に急用ができましたから、早くお車に召されたいと告げて下さい」
などゝ喚いて動揺してゐるのであつた。
すると、城門の墻壁の上から、武装の宮兵が一名首を出して
「やかましいつ。鎮まれ。汝等の主人何進は、謀叛のかどに依つて査問に付せられ、唯今(たゞいま)、かくの如く罪に服して処置は終つた。これを車に載せて立帰れつ」
何か蹴鞠(けまり)ほどな黒い物がそこから抛(ほう)られて来たので、外にいた面面は、急いで拾ひ上げてみると、唇を嚙んだ蒼い何進の生首であつた。
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次回 → 蛍の彷徨(さまよ)ひ(一)(2024年1月6日(土)18時配信)
昭和15年1月6日(土)付の夕刊は休刊だったため、明日1月5日(金)の配信もありません。