第一回 → 黄巾賊(一)
前回はこちら → 舞刀飛首(ぶたうひしゆ)(三)
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洛陽にある何進は、先頃来(さきごろらい)、檄を諸州の英雄に飛ばして、
天下の府、枢廟の弊や今極まる。
宜(よろ)しく公明の旌旗(セイキ)を林集し、
正大の雲会を遂げ、以て、昭々(セウ[セウ])日月の下に
万代の革政を諸公と共に正さん。
と云つたやうな意味を伝へ、その反響いかにと待つてゐた所、やがて諸国から続々と、
「上洛参会(ジヤウラクサンクワイ)」
とか、或(あるひ)は、
「提兵援助(テイヘイヱンジヨ)」
などといふ答文を携(たづさ)へた使者が日夜早馬で先触れして来て、彼の館門を叩いた。
「西涼の董卓も兵を提(さ)げてやつて来るやうですが」
——御史(ギヨシ)の鄭泰(テイタイ)なる者が、何進の前に来て云つた。
「檄文は、董卓へもお出しになつたんですか?」
「む。……出した」
「彼は、豺狼(サイラウ)のやうな男だとよく人は云ひます。京師へ豺狼を引入れたら人を喰(く)ひちらしはしませんかな」
鄭泰が憂へると
「わしも同感だ」
と、室の一隅で、参謀の幕将たちと、一面の地形図を拡(ひら)いてゐた一老将が、歩を何進のはうへ移して来ながら云つた。
見ると、中郎将盧植である。
彼は黄匪討伐の征野から讒(ザン)せられて、檻車(カンシヤ)で都へ送られ、一度は軍の裁廷で罪を宣せられたが、後、彼を墜(おと)し入れた左豊(サホウ)の失脚と共に、免(ゆる)されて再び中郎将の原職に復してゐたのである。
「怖らく董卓は、檄文を見て時こそ来れりと欣(よろこ)んだに違ひない。政廟の革正を欣ぶのでなく、乱をよろこび、自己の野望を乗ずべき時としてです。——わしも董卓の人物はよく知つてをるが、彼(あ)んな漢(をとこ)をもし禁廷に入れたら、どんな禍患(クワクワン)を生じるやも計り知れん」
盧植は、わざと、鄭泰のはうへ向つて話しかけた。暗に何進を諫めたのである。だが何進は、用ひなかつた。
「さう諸君のやうに、疑心をもつては、天下の英雄を操縦はできんよ」
「——ですが」
鄭泰が猶(なほ)、苦言を呈しかけると何進はすこし不機嫌に
「まだまだ、君たちは、大事を共に謀るに足りんなあ」
と、云つた。
鄭泰も、盧植も、
「……さうですか」
と、後のことばを胸に嚥(の)んで退がつてしまつた。そしてこの両者を始め、心ある朝臣たちも、こんな事を伝へ聞いて、そろそろ何進の人間に見限りをつけ出して離れてしまつた。
「董卓どのの兵馬は、もう蓮池(レンチ)(河南省・河南)まで来てゐるさうです」
何進は、部下から聞いて
「なぜすぐにやつて来んのか。迎へをやれ」
と、屢々(しば[しば])使(つかひ)を出した。
けれど、董卓は
「長途を来たので、兵馬にも少し休養させてから」
とか、軍備を整へてとか、何度催促されても、それ以上動いて来なかつた。何進の催促を馬耳東風に、豺狼の眼をかゞやかしつゝ、密かに、眈々と洛内の気配を窺(うかゞ)つてゐるのであつた。
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次回 → 舞刀飛首(ぶたうひしゆ)(五)(2024年1月4日(木)18時配信)
なお、昭和14年(1939)12月30日(金)付から昭和15年(1940)1月4日(木)付まで夕刊は休刊、1月5日(金)付に次回が掲載されてました。これに伴い、次回の配信は2023年1月4日(木)となります。
今年1年、本当にありがとうございました。2024年もよろしくお願いいたします。