前回はこちら → 流行る童歌(二)
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老僧の落ちくぼんでゐる眼は大きく驚異に睜(みは)つたままゝ、劉備の面をじいと見すゑたきり、眼(ま)ばたきもしなかつた。
やがて、独りで、うーむと唸つてゐたが、何思つたか、
「あ、あ! 貴郎(あなた)だつ」
膝を折つて、床に坐り、恰(あたか)も現世の文珠弥勒でも見たやうに、何度も礼拝して止まなかつた。
劉備は、迷惑がつて、
「老僧、何をなさいます」
と、手を取つた。
老僧は、彼の手に触れると、猶更(なほさら)、随喜の涙を流さぬばかり慄(ふる)へて、額に押し戴きながら、
「青年。——わしは長いこと待つてゐたよ。正しく、わしの待つてゐたのは貴郎だ。——あなたこそ魔魅跳梁を退けて、暗黒の国に楽土を創(た)て、乱麻の世に道を示し、塗炭の底から大民を救つてくれるお方にちがいない」と、云つた。
「飛んでもない。私は涿県から迷つて来た貧しい蓆売(むしろうり)です。老僧、離してください」
「いゝや、貴郎の人相骨がらに現はれてをるよ。青年。聞かしておくれ。貴郎の祖先は、帝系の流れか、王侯の血をひいてゐたらう」
「ちがふ」
劉備は、首を振つて
「父も、祖父も、楼桑村の百姓でした」
「もつと先は……」
「わかりません」
「分らなければ、わしの言を信じたがよい。貴郎が佩いてゐる剣は誰にもらつたのか」
「亡父(ちち)の遺物(かたみ)」
「もつと前から、家にお在りぢやつたらう。古びて見る面影もないがそれは凡人(ただびと)の佩く剣ではない。琅玕の珠がついてゐたはず、戞玉(カツギヨク)とよぶ珠だよ。剣帯に革か錦の腰帛もついてゐたのだよ。王者の佩(ハイ)とそれを呼ぶ。何しろ、刀身(なかみ)も無双な名剣にまちがひない。試してみたことがおありかの」
「……?」
堂の外へ先に出たが、後から劉備が出て来ないので、足を止めてゐた賊の馬元義と甘洪は、老僧のぶつ[ぶつ]云つていることばを、聞き澄ましながら振向いてゐた。が、——痺(しび)れをきらして、
「やいつ劉。いつ迄(まで)何をしてゐるんだ。荷物を持つて早く来いつ」と、どなつた。
老僧は、まだ何か、云ひつゞけてゐたが、馬の大声に恟(すく)んで、急に口を緘(つぐ)んだ。劉備はその機(しほ)に、堂の外へ出て来た。
驢を繫(つな)いでゐる以前の門を踏み出すと、馬元義は、驢の手綱を解きかける手下の甘を止めて、
「劉、そこへ掛けろ」
と、木の根を指さし、自分も石段に腰かけて、大きく構へた。
「今、聞いてゐると、汝(てめえ)は行末(ゆくすゑ)、偉い者になる人相を備へてゐるさうだな。まさか、王侯や将軍に成れつこはあるめえが、俺も実は、汝は見込のある野郎だと見てゐるんだ——どうだ、俺の部下になつて、黄巾党の仲間へ加盟しないか」
「はい。有難うございますが」
と、劉備は飽(あく)まで、素直を装つて、
「私には、故郷(くに)に一人の母がいますので、折角ですが、お仲間には入れません」
「おふくろなぞは、有つてもいいぢやねえか。喰(く)ひ扶持《ふち》さへ送つてやれば」
「けれど、かうして、私が旅に出てゐる間も、痩せるほど子の心配ばかりしてゐる、至つて子凡悩(ボンナウ)な母ですから」
「それやさうだろう。貧乏ばかりさせておくからだ。黄巾党に入つて、腹さへ膨らせておけば、何、嬰児(あかご)ぢやあるめえし、子の心配などしてゐ_るものか」
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次回 → 流行る童歌(四)(2023年9月5日(火)18時配信)