前回はこちら → 流行る童歌(三)
**********************************************************************
馬元義は、功名に燃えやすい青年の心を唆(そゝ)るやうに、それから黄巾党の勢力やら、世の中の将来やらを、談義し初めた。
「狭い目で見てゐる奴は、俺たちが良民虐(いぢ)めばかりしてゐると思つてゐるが、俺たちの総大将張角様を、神の如く崇(あが)めている地方だつてかなり有る——」
と、前提(まへおき)して、まづ、黄巾党の起りから説き出すのだつた。
今から十年ほど前。
鉅鹿郡(河北省順徳ノ東)の人で、張角といふ無名の士があつた。
張角は然(しか)し稀世の秀才と、郷土でいはれてゐた。その張角が、或時、山中へ薬を採りに入つて、道で異相の道士に出会った。道士は手に藜の杖をもち、
(お前を待つてゐること久しかつた)と、麾(さしまね)くので、従(つ)いて行つてみると、白雲の裡(うち)の洞窟へ誘(いざな)ひ、張角に三巻の書物を授けて、
(これは、太平要術といふ書物である。此書をよく体して、天下の塗炭を救ひ、道を興し、善を施すがよい。もし自身の我意栄耀に酔うて、悪心を起す時は、天罰たちどころに身を亡ぼすであらう)
と、云つた。
張角は、再拝して、翁の名を問ふと、
(我は南華老仙なり)
と答へ、姿は、一颯の白雲となつて飛去つてしまつたと云ふのである。
張角は、その事を、山を降りてから、里の人々へ自分から話した。
正直な、里の人々は、
(わし等の郷土の秀才に、神仙が宿つた)
と真にうけて、忽(たちま)ち張角を、救世の方師と崇めて、触れまはつた。
張角は、門を閉し、道衣を着て、潔斎をし、常に南華老仙の書を帯びて、昼夜行ひすましてゐたが、或年悪疫が流行して、村にも毎日夥(おびただ)しい死人が出たので、
(今は、神が我をして、出(いで)よと命じ給ふ日である)
と、厳(おごそ)かに、草門を開いて、病人を救ひに出たが、その時もう、彼の門前には、五百人の者が、弟子にしてくれと云つて、蝟集して額(ぬかづ)いてゐたといふ事である。
五百人の弟子は、彼の命に依つて、金仙丹、銀仙丹、赤神丹の秘薬を携(たづさ)へ、各々、悪疫の地を視て廻つた。
そして、張角方師の功徳を語り聞かせ、男子には金仙丹を、女子には銀仙丹を、幼児には赤神丹を与へると、神薬のきゝめは著しく、皆、数日を出でずして癒(なほ)つた。
それでも、癒らぬ者は、張角自身が行つて、大喝の呪を唱へ、病魔を家から追ふと称して、符水の法を施した。それで起きない病人は殆どなかつた。
体の病人ばかりでなく、次には心に病のある者も集まつて来て、張角の前に懺悔した。貧者も来た。富者も来た。美人も来た。力士や武術者も来た。それらの人々は皆、張角の帷幕に参じたり、厨房で働いたり、彼の側近く侍したり、又多くの弟子の中に交(まじ)つて、弟子となつた事を誇つたりした。
忽ち、諸州にわたつて、彼の勢力は拡(ひろ)まつた。
張角は、その弟子たちを、三十六の方を立たせ、階級を作り、大小に分ち、頭立つ者には軍帥の称を許し、又方帥の称呼を授けた。
大方を行ふ者、一万餘人。小方を行ふ者六、七千人。その部の内に、部将あり方兵あり、そして張角の兄弟、張梁、張宝のふたりを、天公将軍、人公将軍とよばせて、最大の権威を握らせ、自身はその上に君臨して、大賢良師張角と、称へていた。
これが抑(そも[そも])の、黄巾党の起りだとある。初め張角が、常に、結髪を黄色い巾(きれ)でつゝんでゐたので、その風が全軍にひろまつて、いつか党員の徽章となつたものである。
*******************************************************************************
次回 → 流行る童歌(五)(2023年9月6日(水)18時配信)