前回はこちら → 流行る童歌(一)
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「やい、老(おい)ぼれ」
甘洪は、半月槍の柄で、老僧の脛を撲(なぐ)つた。
老僧は、やつと鈍い眼をあいて、眼の前にゐる甘と、馬と、劉青年を見まはした。
「食物(くひもの)があるだらう。おれたちは此処で腹支度をするのだ、はやく支度をしろ」
「……無い」
老僧は、蠟のやうな青白い顔を、力なく振つた。
「ない? ——。これだけの寺に食物がない筈はねえ。俺たちを何だと思ふ、頭髪(あたま)の黄巾(きれ)を見ろ。大賢良師張角様の方将、馬元義といふものだ。家探しして、もし食物があつたら、素ツ首を刎ね落すがいいか」
「……どうぞ」
老僧は、頷いた。
馬は甘を顧(かへり)みて
「ほんとに無いのかも知れねえな。餘り落着いてゐやがる」
すると老僧は、曲彔(キヨクロク)に掛けてゐた枯木のような肱を上げて、後の祭壇や、壁や四方をいち[いち]指して、
「無い!無い!無い!……。仏陀の像さへ無い!一物もこゝには無いつ」
と、云つた。
泣くがやうな声である。
そして鈍い眸(ひとみ)に、怨みの光りをこめて又云つた。
「みんな、お前方の仲間が持つて行つてしまつたのだ。蝗の群が通つた田の後みたいだよ此処は……」
「でも、何かあるだらう。何か喰へる物が」
「無い」
「ぢやあ、冷たい水でも汲んで来い」
「井戸には、毒が投げこんである。飲めば死ぬ」
「誰がそんな事をした」
「それも、黄巾をつけたお前方の仲間だ。前の地頭と戦つた時、残党が隠れぬやうにと、みな毒を投げ込んで行つた」
「然(しか)らば、泉があるだらう。あんな美麗な蓮花(はちす)が咲いてゐる池があるのだから、何処ぞに、冷水が湧いてゐるにちがひない」
「——あの蓮花が、何で美しからう。わしの眼には、紅蓮も白蓮も、無数の民の幽魂に見えてならない。一花、一花呪ひ、恨み囈、哭(な)き慄(おのの)き震へてゐるやうな」
「こいつめが、妙な世囈(ま)ひ言(ごと)を……」
「噓と思ふなら、池をのぞいてみるがよい。紅蓮の下にも、白蓮の根元にも、腐爛した人間の死骸がいつぱいだよ。お前方の仲間に殺された善良な農民や女子供の死骸だの、又、黄巾の党に入らないので、縊(くび)り殺された地頭やら、その夫人(おくさん)やら、戦つて死んだ役人衆やら——何百といふ死骸がなう」
「あたり前だ。大賢良師張角様に反(そむ)くやつらは、みな天罰でさうなるのだ」
「…………」
「いや。よけいな事は、どうでもいゝ。食物(たべもの)もなく水もなく、一体それでは、汝(てめえ)は何を喰つて生きてゐるのか」
「わしの喰つてる物なら」
と、老僧は、自分の沓(くつ)のまはりを指さした。
「……そこらにある」
馬元義は、何気なく、床を見まはした。根を嚙んだ生草(なまぐさ)だの、虫の足だの、鼠の骨などが散らかつていた。
「こいつは参つた。御饗応はおあづけとして置かう。おい劉、甘洪、行かうぜ」
と出て行きかけた。
すると、その時初めて、賊の供をしてゐる劉備の存在に気づいた老僧は、穴のあくほど、劉青年の顔を見つめてゐたが、突然、
「あつ?」
と、打たれたやうな愕(おどろ)きを声に放つて、曲彔から突つ立つた。
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次回 → 流行る童歌(三)(2023年9月4日(月)18時配信)
(なお、日曜日については夕刊が休刊のため、配信はありません。)