前回はこちら → 黄巾賊(六)
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驢は、北へ向いて歩いた。
鞍上の馬元義は、時々、南を振り向いて、
「奴等はまだ追ひついて来ないが何(ど)うしたのだらう」
と、呟(つぶや)いた。
彼の半月槍を担いで、驢の後から尾(つ)いてゆく手下の甘洪は
「どこかで道を取つ違へたのかも知れませんぜ。いずれ冀州(河北省保定の南方)へ行けば落ち会ひませうが」
と、云つた。
いづれ賊の仲間のことを云つているのであらう——と劉備は察した。とすれば、自分が遁(のが)れて来た黄河の水村を襲つた彼(あ)の連中を待つてゐるのかも知れない、と思つた。
(何しろ、従順を装つてゐるに如(し)くはない。そのうちには、逃げる機会があるだらう)
劉備は、賊の荷物を負つて、黙々と、驢と半月槍のあひだに挟まれながら歩いた。丘陵と河と平原ばかりの道を、四日も歩きつゞけた。
幸ひ雨のない日が続いた。十方碧落、一朶の雲もない秋だつた。黍のひよろ長い穂に、時折、驢も人の背丈もつゝまれる。
「ああ——」
旅に倦んで、馬元義は大きな欠伸(あくび)を見せたりした。甘も気懶(けだる)さうに、居眠り半分、足だけを動かしてゐた。
そんな時。劉備はふと、
——今だつ。
といふ衝動に駆られて、幾度か剣に手をやらうとしたが、もし仕損じたらと、母を想ひ、身の大望を考へて凝(じつ)と辛抱してゐた。
「おう、甘洪」
「へえ」
「飯が食へるぞ。冷たい水にありつけるぞ——見ろ、彼方(むかふ)に寺があら」
「寺が」
黍の間から伸び上つて
「ありがてえ。大方、きつと酒もありますぜ。坊主は酒が好きですからね」
夜は冷え渡るが、昼間は焦げつくばかりな炎熱であつた。——水と聞くと、劉備も思はず伸び上つた。
低い丘陵が彼方に見える。
丘陵に抱かれてゐる一叢(ひとむら)の木立と沼があつた。沼には紅白の蓮花(はちす)が一ぱいに咲いてゐた。
そこの石橋を渡つて、荒れはてた寺門の前で、馬元義は驢を降りた。門の扉(と)は、一枚は壊(こは)れ、一枚は形だけ残つてゐた。それに黄色の紙が貼つてあつて、次のやうな文が書いてあつた。
蒼天已死(さうてん すでにしす)
黄夫当立(くわうふ まさにたつべし)
歳在甲子(とし かふしにありて)
天下大吉(てんかだいきち)
○
大賢良師張角(たいけんりやうし ちやうかく)
「大方、御覧なさい。こゝにも吾党(わがたう)の盟符が貼つてありまさ。この寺も黄巾の仲間に入つてゐる奴ですぜ」
「誰か居るか」
「ところが、いくら呼んでも誰も出て来ませんが」
「もう一度、呶鳴(どな)つてみろ」
「おうい、誰かいねえのか」
——薄暗い堂の中を、呶鳴りながら覗いてみた。何もない堂の真ん中に、曲彔(キヨクロク)に腰かけてゐる骨と皮ばかりな老僧が居た。然(しか)し老僧は眠つてゐるのか、死んでゐるのか、木乃伊(みいら)のやうに、空虚(うつろ)な眼を梁(うつばり)へ向けたまゝ、寂然と——答へもしない。
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次回 → 流行る童歌(二)(2023年9月2日(土)18時配信)