前回はこちら → 黄巾賊(五)
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劉備は怖れた。これは悪い者に出合つたと思つた。
二人の巨男(おほをとこ)を見るに、結髪を黄色の巾(きれ)で包んでゐるし、胴には鉄甲を鎧(よろ)ひ、脚には獣皮の靴をはき、腰には大剣を横たへてゐる。
問ふまでもなく、黄巾賊の仲間である。しかも、その頭分(かしらぶん》の者であることは、面構へや服装でもすぐ分つた。
「大方(ダイハウ)。こいつを、何(ど)うするんですか」
劉備の襟がみを摑んだのが、もう一人のはうに向つて訊くと、孔子の木像を蹴とばした男は、
「離してもいゝ。逃げれば直ぐ叩つ斬つてしまふ迄(まで)の事だ。おれが睨んでゐる前から何で逃げられるものか」
と、云つた。
そして廟の前の玉石に腰を悠然とおろした。
大方、中方、小方などといふのは、方師(術者・祈禱師)の称号で、その位階をも現してゐた。黄巾賊の仲間では、部将をさして、皆さう呼ぶのであつた。
けれど、総大将の張角のことは、さう称(よ)ばない。張角と、その二人の弟に向つてだけは、特に、
大賢良師、張角
天公将軍、張梁
地公将軍、張宝
といふふうに尊称してゐた。
その下に、大方、中方などとよぶ部将を以(もつ)て組織してゐるのであつた——で今、劉備の前に腰かけてゐる男は、張角の配下の馬元義といふ黄巾賊の一頭目であった。
「おい、甘洪」
と、馬元義は手下の甘洪が、まだ危ぶんでゐる様子に、顎で大きく云つた。
「そいつを、もつと前へ引きずつて来い——そうだ俺の前へ」
劉備は、襟がみを持たれた儘(まま)、馬元義の足もとへ引据ゑられた。
「やい、百姓」
馬は睨(ね)めつけて、
「汝(われ)は今、孔子廟へ向つて、大それた誓願を立てゝゐたが、一体うぬは、正気か狂人か」
「はい」
「はいでは済まねえ。黄魔鬼畜を討つて何(ど)うとか吐(ぬ)かしてゐたが、黄魔とは、誰の事だ、鬼畜とは、何をさして云つたのだ」
「べつに、意味はありません」
「意味のない事を独りで云うたわけがあるか」
「餘(あま)り山道が淋しいので、怖しさをまぎらす為(ため)に出たらめに、声を放つて歩いて来たものですから」
「相違ないか」
「はい」
「——で、何処まで行くのだ。この真夜中に」
「涿県まで帰ります」
「ぢやあまだ道は遠いな。俺たちも夜が明けたら、北の方の町まで行くが、汝(てめえ)のために眼をさましてしまつた。もう二度寝もできまい。ちやうど荷物があつて困つてゐた所だから、俺の荷を担いで、供をして来い——おい、甘洪」
「へい」
「荷物はこいつに担がせて、汝(われ)は俺の半月槍を持て」
「もう出かけるんですか」
「峠を降りると夜が明けるだらう。その間に奴等も、今夜の仕事をすまして、後から追ひついて来るにちげえねえ」
「では、歩き[歩き]、通つた印を残して行きませう」
と、甘洪は、廟の壁に何か書き残したが、半里も歩くと又、道端の木の枝に、黄色の巾(きれ)を結びつけて行く——
大方の馬元義は、悠々と、驢に乗つて先へ歩いて行くのであつた。
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次回 → 流行る童歌(一)(2023年9月1日(金)18時配信)