前回はこちら → 黄巾賊(四)
**********************************************************************
「あゝ、酸鼻な——」
劉備は、呟いて、
「こゝへ自分が泊り合せたのは、天が、天に代つて、この憐れな民を救へとの、思召(おぼしめし)かも知れぬ。……おのれ、鬼畜共め」
と、剣に手をかけながら、家の扉(と)を蹴つて、躍り出さうとしたが、いや待て——と思ひ直した。
母がある。——自分には自分を頼みに生きてゐるただ一人の母がある。
黄巾の乱賊はこの地方にだけゐるわけではない。蝗(いなご)のやうに、天下至るところに群(グン)をなして跳梁してゐるのだ。
一剣の勇では、百人の賊を斬ることも難(むづ)かしい。百人の賊を斬つても、天下は救はれはしないのだ。
母を悲しませ、百人の賊の生命(いのち)を自分の一命と取換へたとて何にならう。
「さうだ。……わしは今日も黄河の畔で天に誓つたではないか」
劉備は、眼を淹(おほ)つて、裏口から逃れた。
彼は、闇夜を駈けつゞけ、漸(やうや)く村を離れた山道までかゝつた。
「もうよからう」
汗を拭つて振顧(ふりかへ)ると、焼き払はれた水村は、曠野の果の焚火よりも小さい火にしか見えなかつた。
空を仰いで、白虹のやうな星雲を架けた宇宙と見較(みくら)べると、この世の山岳の大も、黄河の長さも、支那大陸の偉(イ)なる広さも、むしろ愍(あは)れむべき小さい存在でしかない。
まして人間の小ささ——一箇の自己の如きは——と劉備は、我といふものの無力を嘆いたが、
「否(いな)!否!人間あつての宇宙だ。人間が無い宇宙はたゞの空虚(うつろ)ではないか。人間は宇宙より偉大だ」
と、われを忘れて、天へ向つて呶鳴(どな)つた。すると後の方で、
——然なり。然なり。
と、誰か云つたやうな気がしたが、振顧つて見たが、人影なども見当らなかつた。
たゞ、樹木の蔭に、一宇の古い孔子廟があつた。
劉備は、近づいて、廟に額(ぬかづ)きながら、
「さうだ、孔子、今から七百年前に、魯の国(山東省)に生れて、世の乱れを正し、今に至るまで、かうして人の心に生き、人の魂を救つてゐる。人間の偉大を證拠立てたお方だ。その孔子は文を以て、世に立つたが、わしは武を以て、民を救はう——。今のやうに黄魔鬼畜の跳梁にまかせてゐる暗黒な世には、文を布く前に、武を以て、地上に平和を創(た)てるしかない」
多感な劉備青年は、あたりに人がゐないとのみ思つてゐたので、孔子廟へ向つて誓ひを立てるやうに、思はず情熱的な声を放つて云つた。
——と、廟の中で、
「わはゝゝゝ」
「あははは」
大声で笑つた者がある。
吃驚して、劉備が起ちかけると、廟の扉(と)を蹴つて、突然、豹のやうに躍り出して来た男があつて、
「こら、待て」
劉備の襟首を抑へた。
同時に、もう一人の大男は、廟の内から劉備の眼の前へと、孔子の木像を蹴とばして、
「ばか野郎、こんな物が貴様有難いのか。どこが偉大だ」
と、罵つた。
孔子の木像は、首が折れて、わかれ[わかれ]に転がつた。
*******************************************************************************
次回 → 黄巾賊(六)(2023年8月31日(木)18時配信)