前回はこちら → 黄巾賊(三)
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「持つてをります」
彼は、懐中(ふところ)の革嚢を取出し、銀や砂金を取交ぜて、対手(あひて)の両掌(りやうて)へ、惜げもなくそれを皆あけた。
「ほ……」
洛陽の商人は、掌(て)の上の目量(めかた)を計りながら、
「あるねえ。然(しか)し、銀があらかたぢやないか。これでは、佳(よ)い茶はいくらも上げられないが」
「何程でも」
「そんなに欲しいのかい」
「母が眼を細めて、欣(よろこ)ぶ顔が見たいので——」
「お前さん、商売は?」
「蓆や簾(すだれ)を作つてゐます」
「ぢやあ、失礼だが、これだけの銀(かね)を蓄(た)めるにはたいへんだろ」
「二年かゝりました。自分の喰べたい物も、着たい物も、節約して」
「さう聞くと、断れないな。けれどとても、これだけの銀(かね)と替へたんぢや引合はない。何か他にないかね」
「これも添へます」
劉備は、剣の緒に提(さ)げている琅玕(ラウカン)の珠を解いて出した。洛陽の商人は、琅玕などは珍しくない顔して見てゐたが、
「よろしい。おまへさんの孝心に免じて、茶と交易してやらう」
と、軈(やが)て船室の中から、錫の小さい壺を一つ持つて来て、劉備に与へた。
黄河は暗くなりかけてゐた。西南方に、妖猫の眼みたいな大きな星がまたゝいてゐた。その星の光をよく見ていると虹色の暈(かさ)がぼつとさしてゐた。
——世の中がいよ[いよ]乱れる凶兆だ。
と、近頃しきりと、世間の者が怖がつてゐる星である。
「ありがたうございました」
劉備青年は、錫の小壺を、両掌に持つて、やがて岸を離れてゆく船の影を拝んでゐた。もう瞼に、母のよろこぶ顔がちらちらする。
然(しか)し、こゝから故郷の涿県楼桑村までは、百里の餘もあつた。幾夜の泊りを重ねなければ帰れないのである。
「今夜は寝て——」
と、考へた。
彼方を見ると、水村の灯(ひ)が二つ三つまたゝいている。彼は村の木賃へ眠つた。
すると夜半頃。
木賃の亭主が、あわたゞしく起しに来た。眼をさますと、戸外(おもて)は真つ赤だつた。むうつと蒸されるやうな熱さの中に、何処かでパチパチと、火の燃える物音もする。
「あつ、火事ですか」
「黄巾賊が襲(や)つて来たのですよ旦那、洛陽船と交易した仲買人たちが、今夜こゝに泊つたのを狙つて——」
「えつ。……賊?」
「旦那も、交易した一人でせう。奴等が、まつ先に狙ふのは、今夜泊つた仲買たちです。次にはわし等の番だが、はやく裏口からお逃げなさい」
劉備はすぐ剣を佩(は)いた。
裏口へ出てみるともう近所は焼けてゐた。家畜は、異様な唸(うめ)きを放ち、女子どもは、焰の下に悲鳴をあげて、逃げ惑つてゐた。
昼のやうに大地は明るい。
見れば、夜叉のやうな人影が、矛や槍や鉄杖を揮つて、逃げ散る旅人や村の者等を見あたり次第に其処此処で殺戮してゐた。——眼を掩(おほ)ふやうな地獄が描かれてゐるではないか。
昼ならば眼にも見えよう。それ等の悪鬼は皆、結髪のうしろに、黄色の巾(きれ)を掛けてゐるのだ。黄巾賊の名は、それから起つたものである。本来は支那の——此国の最も尊い色であるはずの黄土の国色も、今は、善良な民の眼をふるへ上がらせる、悪鬼の象徴(しるし)になつてゐた。
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次回 → 黄巾賊(五)(2023年8月30日(水)18時配信)