前回はこちら → 黄巾賊(二)
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ゆるやかに、江を下つて来る船の影は、舂(うすづ)く陽を負つて黒く、徐々(ゆるゆる)と眼の前に近づいて来た。
ふつうの客船や貨船とちがひ、洛陽船は一目でわかる。無数の紅い龍舌旗を帆ばしらに翻(ひるが)へし、船楼は五彩に塗つてあった。
「おうーい」
劉備は、手を振つた。
しかし船は一箇の彼に見向きもしなかつた。
徐(おもむろ)に舵を曲げ、スル[スル]と帆を下ろしながら、黄河の流れにまかせて、そこからずつと下流(しも)の岸へ着いた。
百戸ばかりの水村がある。
今日、洛陽船を待つてゐたのは、劉備ひとりではない。岸にはがや[がや]と沢山な人影がかたまつてゐた。驢を曳(ほ)いた仲買人の群だの、鶏車(チイチヤー)と呼ぶ手押車に、土地の絲や綿を積んだ百姓だの、獣の肉や果物を籠に入れて待つ物売だの——すでにそこには、洛陽船を迎へて、市(いち)が立たうとしてゐた。
何しろ、黄河の上流、洛陽の都には今、後漢の第十一代の帝王、霊帝の居城があるし、珍しい物産や、文化の粋は、殆どそこで製(つく)られ、そこから全支那へ行き渡るのである。
幾月かに一度づゝ、文明の製品を積んだ洛陽船が、この地方へも下江して来た。そして沿岸の小都市、村、部落など、市(いち)の立つ所に船を寄せて、交易した。
こゝでも。
夕方にかけて、怖しく騒がしく又あわたゞしい取引が始まつた。
劉備は、その喧(やか)ましい人声と人影の中に立ち交じつて、まごついてゐた。彼は、自分の求めようとしてゐる茶が、仲買人の手に這入(はい)ることを心配してゐた。一度、商人の手に移ると、莫大な値になつて、迚(とて)も自分の貧しい嚢中では購(あがな)へなくなるからであつた。
またゝく間に、市の取引は終つた。仲買人も百姓も物売たちも、三々五々、夕闇へ散つてゆく。
劉備は、船の商人らしい男を見かけてあはてゝ側へ寄つて行つた。
「茶を売つて下さい。茶が欲しいんですが」
「え。茶だつて?」
洛陽の商人は、鷹揚に彼を振向いた。
「生憎(あいにく)と、お前さんに頒(わ)けてやるような安茶は持たないよ。一葉幾値(いくら)といふやうな佳品しか船にはないよ」
「結構です。たくさんは要りませんが」
「おまへ茶を喫(の)んだことがあるのかね。地方の衆が何か葉を煮て喫んでゐるが、あれは茶ではないよ」
「はい。その、ほんとの茶を頒けて戴きたいのです」
彼の声は、懸命だつた。
茶がいかに貴重か、高価か、又地方にもまだ無い物かは、彼もよく辨(わきま)へてゐた。
その種子(たね)は、遠い熱帯の異国からわづかに齎(もたら)されて、周の代に漸(やうや)く宮廷の秘用に嗜まれ、漢帝の代々(よよ)になつても、後宮の茶園に少し摘まれる物と、民間の極(ご)く貴人の所有地に稀(ま)れに栽培された位なものだとも聞いてゐる。
又別な説には、一日に百草を嘗めつゝ人間に食物を教へた神農は、度々毒草に中(あ)たつたが、茶を得てからこれを嚙むと忽(たちま)ち毒を解(け)したので、以来、秘愛せられたとも伝へられている。
いづれにしろ、劉備の身分でそれを求める事の無謀は、よく知つてゐた。
——だが、彼の懸命な面持(おももち)と、真面目に、欲する理(わけ)を話す態度を見ると、洛陽の商人も、やゝ心を動かされたとみえて、
「では少し頒けて上げてもよいが、お前さん、失礼だが、その代価をお持ちかね?」
と訊いた。
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次回 → 黄巾賊(四)(2023年8月29日(火)18時配信)