前回はこちら → 黄巾賊(一)
**********************************************************************
劉備は、驚いて、何者かと振顧(ふりかへ)つた。
咎めた者は、
「どこから来たつ」
と、彼の襟がみをもう用捨(ようしや)なく摑んでいた。
「……?」
見ると、役人であらう、胸に県の吏章をつけてゐる。近頃は物騒な世の中なので、地方の小役人までが、平常でもみな武装してゐた。二人のうち一名は鉄弓を持ち、一名は半月槍をかかえてゐた。
「涿県の者です」
劉備青年が答へると、
「涿県はどこか」
と、たゝみかけて云ふ。
「はい。涿県の楼桑村(現在・京漢線の保定北京間)の生れで、今でも母と共に、楼桑村に住んでをります」
「商売は」
「蓆(むしろ)を織つたり簾を製(つく)つて、売つてをりますが」
「なんだ、行商人か」
「そんなものです」
「だが……」
と、役人は急に汚(むさ)い物から退(の)くように襟がみを放して、劉備の腰の一剣をのぞきこんだ。
「この剣には、黄金の佩環に、琅玕(ラウカン)の緒珠が提(さ)がつてゐるのではないか。蓆売(むしろうり)には過ぎた刀だ。——何処で盗んだ?」
「これだけは、父の遺物(かたみ)で持つてゐるのです。盗んだ物などではありません」
素直ではあるが、凛とした答へである。役人は、劉備青年の眼を見ると、急に眼をそらして、
「然(しか)しだな、こんな所に、半日も坐りこんで、一体何を見てをるのか。怪しまれても仕方があるまい。——折も折、ゆうべもこの近村へ、黄巾賊の群が襲(よ)せて、掠奪を働いて逃げた所だ。——見るところ大人しさうだし、賊徒とは思はれぬが、一応疑つてみねばならん」
「御もつともです。……実は私が待つてゐるのは、今日あたり江を下つて来ると聞いてゐる洛陽船でございます」
「はゝあ。誰か、身寄の者でも、それへ便乗して来るのか」
「いゝえ、茶を求めたいと思つて。——待つてゐるのです」
「茶を」
役人は眼をみはつた。
彼等はまだ、茶の味を知らなかつた。茶といふ物は、瀕死の病人に与へるか、よほどな貴人でなければ喫(の)まないからだつた。それほど高価でもあり貴重に思はれていた。
「誰に喫ませるのだ。重病人でもかゝへているのか」
「病人ではございませんが、生来、私の一人の母の大好物は茶でございます。貧乏なので、滅多に買つてやる事もできませんが、一両年稼いで蓄(た)めた小費(こづかい)もあるので、こんどの旅の土産には、買つて戻らうと考へたものですから——」
「ふーむ。……それは感心なものだな。おれにも息子があるが、親に茶を喫ませてくれるどころか——あの通りだわえ」
二人の役人は、顔を見合せてそう云ふと、もう劉備の疑ひも解けた容子で、何か語らひながら立ち去つてしまった。
陽は西に傾きかけた。
茜ざした夕空を、赤い黄河の流れに対した儘(まま)、劉備は又、黙想してゐた。
と、軈(やが)て、
「おゝ、船旗が見えた。洛陽船にちがひない」
彼は初めて草むらを起つた。そして眉に手をかざしながら、上流のほうを眺めた。
【正誤】昨日掲載の分第二行目の七百七十年は千七百七十年の誤につき訂正致します。
*******************************************************************************
次回 → 黄巾賊(三)(2023年8月28日(月)18時配信)
(なお、日曜日については夕刊が休刊のため、配信はありません。)