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代々漢朝の臣であり、累代の朝廷に仕へて来た公卿だといふ理由だけで、たくさんな官人たちは車に盛られ、馬の背に乗せられ、まるで流民のやうに、許都から鄴都へさし立てられた。
こゝへ来て、彼等は初めて曹操の魏王宮を見、その華麗壮大なのに、呆気(あつけ)にとられた。
そして、心ひそかに、
「あゝ、もう都は、許都にはなく、鄴都にあるやうなものだ……」
と、つぶやき合つた。
曹操は、この汚い百官の群(むれ)を、その壮麗な魏宮の庭園に立たせ、
「先頃の乱のとき、汝等のうちには、門を閉ぢて、たゞ慄へ上つてゐた者もあらうし、又、敢然出て火を鎮めんと、働いた者もあるであらう。いち/\調べるのは、面倒くさい。あれに紅白二旒の旗が立てゝあるから、火を防ぎに出た者は、紅の旗の下に立て、また、門を閉ぢて、出なかつた者は、白い旗の下にかたまれ」
と、云ひわたした。
まるで児童(こども)あつかひである。あはれや、衰へたりといへ、朝夕、禁裡に仕へる身なるものをと、悲涙をのみ、憤怒を抑へてゐた者もあらうが、色にでも、そんな気ぶりを現はしたら、すぐ首が飛んでしまふ。
「……?」
官人たちは、お互ひに、右を視(み)左を視(み)、どつちへ行かうかと、迷つてゐるふうだつたが、期せずして、全人員の八割までが、ぞろぞろぞろと、紅い旗の下へ馳け集まつた。
これは、各々が、
「もし、門を閉ぢて、出なかつたといへば、きつと過怠なりといつて、咎めを受けるにちがひない。都下の騒擾(サウゼウ)と共に、火を防ぎに出たといへば、何の罪科にも触れはしまい」
といふ心理であつた。
ところが、曹操は、高臺(コウダイ)の上からそれを見届けるや、叱呼して、武将に命じた。
「よしつ。紅(くれなゐ)の旗の下に集まつた輩(やから)は、残らず、異心ある者と見てよろしい。一人のこらず引つ縛(くゝ)つて、漳河の岸へ引つ立てろ。もちろんみな打首だ」
驚いたのは、四百餘名の官人たちである。彼のゐる高き臺(うてな)を仰いで、悲鳴を放つた。
「罪なし、罪なし。われらに、何の罪があつてぞ」
「非道ではないか」
「無情ぞや、魏王」
しかし曹操は、耳のない人のやうにいや涙すらない巨像のやうに漳河の水のはうを見てゐた。
残るわづかな官人——白旗の下に立つた者だけは、是(これ)を赦して、許都へ返させた。
同時に宮廷の侍側、閣員、内外の諸官人などに、大更迭が行はれた。
鍾繇を相国(サウコク)に。
華欽(ママ)をして御吏大夫(ギヨリタイフ)に。
また曹休を、王必亡きあとの、御林軍総督に任じ、更に侯位勲爵の制を、六等十八級にさだめて、金印、銀印、亀紐(キチウ)、寰紐(クワンチウ)、紫綬(シジユ)などの大法を、勝手に改めたり、それを授与したり、殆ど、朝廷を無視して、魏王の意のまゝとなした。
従つて、曹操の一族とか、その一族に附随する者共とかの専横、独善、依怙(エコ)、驕慢ぶりなどは、推して知るべきものがあつた。まことに、曹氏の縁につながり無くんば、人と生れても人にはあらず、と誰(たれ)やら慨嘆したことは其(その)儘(まゝ)、許都の常識とまでなりつゝあつた。
その曹操も管輅の卜には、ひどく傾倒もし、感謝もしてゐたらしく、
「実に、よく中(あた)つた。実に汝の豫言に従はず、予が漢中に遠征してゐたら、大事はもつと大事と化し、それこそ一夜に消せない火の災となつてゐたらう。——褒美をやる。管輅、何なりと望め」
と、云つた。
すると、管輅は
「私には、火を防ぐ力も、水を支へる力もありません。大王が鄴都にとゞまつたのも天の定数です。許都の乱も約束事です。また私が大王に見出されて、豫言申し上げたのも、おそらく天意でしたらう。かう考へると、私が大王から恩爵をいたゞく理由はちつともない。拝謝いたします。御褒美の儀は御かんべん下さい」
どうしても彼はそれを受けなかつた。
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次回 → 陣前(ぢんぜん)公用(こうよう)之(の)美酒(一)(2026年8月18日(火)18時配信)

