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前回はこちら → 御林の火(一)
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市中といはず、禁門の中といはず、火の狂ふところには、
「逆(ギヤク)、曹賊を殺して、順(ジユン)、漢室の復古を扶(たす)けよ」
といふ声があつた。
また、諸声(もろごゑ)あはせて、
「死ねや死ねや。漢朝のために——」
と、悲壮な叫びが聞えた。
けれど、曹休を初め、曹氏の一族は、市街に戦ひ、禁門に争ひ、これも又、命を惜(をし)まず、叛乱兵と斬(きり)むすび、よく宮中を守つてゐた。
かゝるうちに、火は東華門(トウクワモン)から五鳳楼(ゴホウロウ)へ燃えて来たので、帝は御座所を深宮に遷(うつ)され、ひたすら成行を見まもつて居られた。
そのうち、城外五里の地に屯してゐる夏侯惇の三万騎も、
「たゞならぬ空の赤さ。何事か洛内に異変があるぞ」
と、早くも出動を開始して、続々、市街へ入つて来た。
かうなつてはもう金褘、韋晃、耿紀などの計画も、その成功を期することは覚(おぼ)束(つか)なかつた。何よりは、帝の御動座を促して——と、禁中へ入らうとしたが、すでに曹休が軍馬を並べてをり、王必を討ち取つて、これへ合流する筈(はず)の金褘、耿紀などはいつまでも来ない。
当然、韋晃は苦戦に陥つたのみならず、かういふ手違ひと情勢の不振を見た為、御林軍の多くは、二の足を踏んでしまひ、豫定のとほり錦旗(キンキ)の下(もと)に集まつて、反魏王、反曹一族の声明をすることすら避けてしまつた。
あはれを止(とゞ)めたのは、大医吉平の子、吉邈(キツバウ)兄弟である。民衆に檄(ゲキ)を伝へて、街頭から義兵を叫合(ケウゴウ)するつもりで、大いに活躍してゐたが、忽ちこれへ殺到した夏侯惇の大軍に出会ふや、一(ひと)堪(たま)りもなく剿滅(サウメツ)され、吉邈も吉穆も、兄弟枕をならべて討(うち)死(じに)してしまつた。
騒擾(サウゼウ)は、暁まで続いた。しかし餘燼のいぶる朝空に、陽が昇つた頃には、
「昨夜、洛内を騒がした反(かへ)り忠の者共、首謀者以下、あらまし召捕り終んぬ。ねがはくは、御安堵あらせ給へ」と、夏侯惇の口上をうけた急使やら、戦況を告げにゆく早馬やらが、鄴郡へ向つて頻繁に立つてゐた。
曹操は、この訴へに、
「さてこそ、管輅の豫言は、この事であつたか」
と、思ひ当ると共に、朝廷の内深くひそんでゐる漢朝旧臣派の根づよい結束に身の毛をよだてゝ、
「かういふ時は、根を刈らねばならん。およそ漢朝の旧臣と名のつく輩(やから)は、その位官高下を問はず、一(ひと)束(たば)にして、鄴郡へ送りよこせ」
と、厳達した。
もちろんそれは、今度の魏王(ギワウ)顚覆(テンプク)計画の実際運動には加盟してゐない者だけであつて、いやしくも金褘や耿紀の徒と、少しでも交渉があつたとか、日頃の言動がくさいと睨まれてゐる者は、悉(こと/゛\)く、市に引出して、その首を刎(はね)てしまつた。
熱血児耿紀は、うしろ手に縛されて、大路(おほぢ)を曳かれて行きながら、天を睨んで、
「曹操々々。今日、生きて汝を殺すあたはずとも、死して鬼(キ)となり、かならず数年のうちに、汝を鬼籍に招いてやるぞ。待つてをれつ」
と、罵つて熄(や)まなかつたといふ。
同志の韋晃は、刑場に坐つて、すでにその頭(かうべ)へ、刃(やいば)の下らんとする刹那、
「待てつ」
と、刑吏をにらみつけて、からからと自嘲を洩らしたと思ふと、
「恨むべし、恨むべし。天にあらず、微忠のなほ至らざるを」
と、大きく叫んで、頭上の一閃も待たず、自らその頭(かしら)を大地へ叩きつけて、歯牙も頭蓋骨も粉々に砕いて死んでしまつた。
金褘の三族も、すべて死を蒙(かうむ)つた。燈籠(トウラウ)祀(まつ)りのあとは昼も晦(くら)く、燃えいぶつた宮門禁裡の深く、冬木立に群(む)るゝ寒鴉(カンア)の声もかなしげだつた。
わづかに、心から市人の胸を慰めたものは、御林軍の大将王必が、矢(や)痍(きず)が因(もと)で、これも間もなく死んだといふ事だけであつた。
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次回 → 御林の火(三)(2026年8月17日(月)18時配信)
なお、日曜日については夕刊が休刊のため、配信はありません。

