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「先刻からの無礼はおゆるし下さい。実は、あなたのお心を試したのです。鉄石の如き忠胆(チウタン)、いつに変らぬ義心、よく見とゞけました」
韋晃も、また耿紀も、そういつて、彼の足もとへひざまづいた。
金褘は、茫然としてゐた。
そこで初めて、二人は意中を打明けた。今にして日頃の素志を貫かなければ、つひに曹操の大野望は、難なくこゝに実現を見ることにならうと、近時の形勢から推論して、
「まづ、彼に先んじて、王必を刺し殺し、御林(ギヨリン)の兵権をわれ/\の手に収めてから、天子を擁して、急使を蜀へ奔(はし)らせ、蜀の玄徳に天子を扶(たす)けよと、綸旨(リンシ)を伝へるならば、この際、曹操を伐(う)つことは決して難事ではないと考へられます。どうか、あなたはわれわれの上に立つて、禁門方を指揮して下さい」
と、涙をたれて赤心を吐いた。
金褘はもとよりそれにも勝る憂を抱いてゐたので、互ひに手を取つて朝廷のために哭き、
「誓つて国賊を除かん」
と、恨気(コンキ)天を衝(つ)くものがあつた。
以来、日々夜々、同志は人目をしのんでは、金褘の家に会してゐたが、或る折、金褘が二人に諮つた。
「卿等も、或(あるひ)は御承知だらうが、亡き大医吉平に二人の遺子がある。兄を吉邈(キツバウ)といい、弟を吉穆(キツボク)といふ。父の吉平は、知つてのとほり、国舅(コクキウ)の董承と計つて、曹操をのぞかんとし、却(かへ)つて事あらはれて、曹操に斬られた者だ。——今、その兄弟をよんで、われ等の企(たく)みを話してやれば、怖(おそ)らく彼等は、勇躍して、父の仇(あだ)を報ぜんといふであらう。そしてかならず味方の一翼となること疑ひないが、卿等はどう思はれるか」
「それはぜひ呼んで下さい」
「異存なければ」
と、金褘はすぐ使を出した。
若い凛々(りゝ)しい男が二人、夜に入つてやつて来た。大医吉平の子である。父を曹操に殺され、世にも出ず、人の情(なさけ)で育てられて来たこの多感な若者たちが、金褘、韋晃などから大事を打明けられて、
「時こそ来れり」
と、感奮したことはいふまでもない。
かゝるうちに其(その)年も暮れた。そして正月十五日の夜は、毎歳(まいとし)、上元の佳節として、洛中の全戸は、紅い燈籠や青い燈(ともしび)を張(はり)つらね、老人も童児も遊び楽しむのが例になつてゐる。
一同は、この夜を、大事決行の時と、手ぬかりなく、諜(しめ)しあはせてゐた。
その手筈は。
東華門の王必の営中に、火がかかるのを合図に、内外から起(た)つて、まづ彼を伐(う)ち、すぐ一手になつて、禁裡(キンリ)へ馳せつけ、帝(テイ)に奏して、五鳳楼(ゴホウロウ)へ出御を仰ぎ、そこへ百官を召し集めて、劃期的な宣言をする。同時に、帝(テイ)の綸旨(リンシ)を請ふ。
一面、吉邈(キツバウ)兄弟は、城外に火を放つて、声々に、
(天子の勅命によつて、こよひ国賊を伐つ。民は安んじて、たゞ朝廷をお護りし奉れ。若き者は、錦旗(キンキ)の下(もと)に馳せつけ、一かたまりとなつて、鄴都へすゝめ、鄴都には悪逆無道、多年、天子を悩まし奉り、汝らを苦しめたる曹操があるぞ。蜀の玄徳も、すでに曹操を討つべく、西より大軍をさし向けつゝあるぞ。行けや、行けや、時を移すな)
と呼ばはらせ、御林(ギヨリン)軍(グン)のほかに、民兵も大いに集めて、気勢を昂(あ)げようといふのであつた。
各々、秘密をちかひ、天地に祈つて、血をすゝり、待つほどに、その日は来た。正月十五日の黄昏(たそがれ)刻(どき)。
耿紀、韋晃たちは、前の日から休暇を賜はつて、各々の邸(やしき)にゐた。手(て)飼(がひ)の郎党から召使の奴(やつこ)までを加へると四百餘人はゐる。また吉邈(キツバウ)兄弟も、親類一族をかりあつめ、約三百餘人の同勢を作つて、
「郊外へ狩猟(かり)に行く」
と称し、ひそかに武具を揃へ、馬を曳き出し、物見を放つて、街の空気を窺はせてゐた。
さて、もう一名の同志金褘は、王必と交りがあるので、夕方から彼の招待をうけて、東華門の営へ出かけてゐた。
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次回 → 御林(ぎよりん)の火(一)(2026年8月14日(金)18時配信)

