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なお、昭和17年(1942)8月12日付の『中外商業新報』夕刊は、国会図書館においても缺号となっています。そのため、今回については14冊本単行本『三国志 三立の巻』(1943年11月刊行)の当該部分を底本としています。
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漢中の境を防ぐため、大軍を送り出した後も、曹操は何となく、安からぬものを抱いてゐた。
管輅の豫言に。——明春早々、都のうちに、火の災(わざはひ)あらん——とあるその事だつた。
「都といふからには、もちろん、この鄴郡ではあるまい」
夏侯惇(カコウジユン)をよんで、兵三万を附与した。そして、
「許都に入らず、許都の郊外に屯(たむろ)して、不慮の災(わざはひ)に備へ、また長史(チヤウシ)王必(ワウヒツ)を府内に入れて、御林の兵馬は、すべて彼の手に司(つかさ)どらせよ」
と命じた。
司馬仲達が、側(そば)で眉をひそめた。
「王必を御林軍の師団長に任ずるのはいかゞなものでせうか。彼は酒を好み、弛(ゆる)みのある男ですから、悪くすると、軍の統率を誤るかもしれません」
「いや、王必の短所は、予も知つてゐるが、あれも長らく麾下にあつて、予と艱難を共にし、まづ/\忠実に勤めて来た者。今日、御林軍の師団長ぐらゐに挙げてつかはしても、さう破格なこともあるまい」
曹操には、曹操にも有るのかしらと思はれるやうな、かういふ一面の寛度と情味もあつた。ここらが、彼に仕へる人物が長く彼を離れないでゐる一つの理由といふよりは〔うま〕味といふものであつたらう。
ともあれ、命をうけた夏侯惇(カコウジユン)は、兵をひきゐて、許都の府外に宿営し、王必はさういふわけで、御林軍の長となつて、日々、禁門や市街の警備にあたり、その営を東華門の外においてゐた。
これは曹操にしてみれば災を未然に防ぐ消極的な一工作に過ぎなかつたが、皇城を中心として、彼の魏王(ギワウ)僭称(センシヨウ)以来、頓(とみ)に激化してゐた純粋な朝臣たちには、かなり大きな刺戟を与へた。
「近衛の司令を、王必に替へ、府外に三万の兵を待機させておくは、何か容易ならぬ企みがあるにちがひない」
「おそらく、曹操がこの次に望んでゐるものは、魏王以上のものだらう。近いうちに、不逞な実行を敢てして、おのれ漢朝の世代を継いで皇帝を名乗らんとする下心にちがひない」
早くもかういふ見解が、一派の漢朝の忠臣間に囁き伝へられた。さなきだに曹操が魏王を称して、天子にひとしい車服儀仗を用ひるを眺めて、切歯扼腕(セツシヤクワン)してゐた一派の輩(ともがら)は、
「捨ておくべきでない」
と、同志のあひだに、密々、連絡をとつてゐた。
こゝに、耿紀(コウキ)字(あざな)を季行(キカウ)といふ者があつた。侍中少府(ジチウのセウフ)に奉仕し、つねに朝廷の式微を嘆き、同志の韋晃(ヰクワウ)と血をすゝり合つて、
「いつかは」
と、時節を期してゐたところが、この情勢なので、当然、大きな衝動をうけ、
「われら漢朝の旧臣たるもの、豈(あに)、曹操と共に大悪(タイアク)を成すべけんや」
と、ひそかに友の韋晃に心中を洩らしてゐた。
韋晃も云つた。
「坐して、その大悪を見てゐるにも忍びない。むしろ、彼等の機先を制し、かねての大事をこの時に挙げるに如(し)くはあるまい。——それには、もう一名、有力な味方も見つけておいた」
「それは頼もしいが、魏王に媚びざれば、人でないかのやうな今、そんな人がゐるだらうか」
「漢の金日磾(キンジツテイ)の末裔——あの金褘(キンヰ)だ。実はその金褘と自分とは、友人以上の情をもつて交(まじは)つてゐる」
「それやあ、〔あて〕にならん」
耿紀は失望したばかりでなく、却(かへ)つて、同志のひとりがそんな者と親しいのを、非常に不安がるやうな顔をして云つた。
「金褘といへば、王必の親友ぢやないか。その王必は、曹操の股肱(ココウ)だ。——君ひとりが金褘にとつて無二の友だなんて己(うぬ)惚(ぼ)れてゐると、大きな間違ひの因(もと)になりはせんか」
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次回 → 正月十五夜(二)(2026年8月12日(水)18時配信)

