吉川英治『三国志(新聞連載版)』(872)遼(れう)・来々(らいらい)(二)
昭和17年(1942)7月28日(火)付掲載(7月27日(月)配達)
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「やあ。しまつた」
馬は、水に愕(おどろ)いて、竿立ちになつて嘶(いなゝ)く。
うしろからは、張遼の兵、三千ほどが、ふたりの影を認めて、雨のごとく、箭(や)を射て来る。
「綾統(ママ)。何としたものぞ」
孫権は、馬と共に、鞍上で身を揉んだ。
「いや、お躁(さは)ぎになるには当りません。てまへのするやうに為(し)て、後から続いておいでなさい」
綾統(ママ)は、水(みづ)際(ぎは)から遠くへ、馬を回(かへ)して、改めて、勢よく馳出した。そして破壊された橋の水際へ近づくや否、鞭も折れよと、馬のしりを打つた。
馬は高く跳(をど)つて、水面を飛びこえ、彼方の橋の端へ立つた。孫権も、その技に倣(なら)つて、難なくそこを飛(とび)越(こ)した。
河の上に、後陣の徐盛や董襲の船が見えた。綾統(ママ)は、半分になつてゐる橋の上から、
「主君をこゝへ置いてゆくから確(しか)とお守りをたのむぞ」
と、声をかけて、ふたゝび前の所を飛び、岸へ上つたと思ふと、敵の矢風へ向つて、まつしぐらに馳向つてゆく。
遠く先へ出過ぎた甘寧と呂蒙もにはかに後へもどつて、魏軍と接戦してゐたが、何分にも、虚を衝かれた為、その備へは、中軍や後陣と一致せず、各所で魏軍に包囲されたり、寸断されたりして、夥(おびたゞ)しい戦死者を出してしまつた。
わけて、惨たる潰滅をうけたのは、綾統(ママ)の隊だつた。孫権の急場を救ふために、まつたく隊形を失ひ、主将を見失つてゐる間に、魏の李典軍の包囲下に圧縮されて、これは殆(ほとん)ど一人の生存者もなかつたほど、ひどい屍山(シザン)を築いてしまつた。
隊長の、綾統(ママ)も、二度目に引返して来たときは、すでに部下の大半以上討たれてゐたので、その苦戦ぶりは言語に絶し、つひに全身数ケ所の鑓(やり)瘡(きづ)を負ひ、満身(マンシン)朱(あけ)にまみれて、よろ/\と、小師橋附近までのがれて来た。
もう彼には、馬に鞭を加へて、そこを一跳に越すやうな気力などが到底なかつたし、流れ入る血しほに、眼もかすんで、河も水も見えないやうな姿だつた。
河中の舟から孫権が、その姿を見つけた。孫権は舟べりを叩いて、
「あれ助けよ。綾統(ママ)に違ひない」
と、声も嗄(か)るゝばかり叫んだ。
漸く一つの舟が、岸へ寄つて、彼を拾つて来た。そのほか敗残の味方も、次々に、河の北へ収容した。敵に追はれて、舟を待ついとまもなく、無残に討たれる者や、河へ飛びこんで溺れ去つてゆく者を見ても、どうにもならないやうな状態だつた。
「不覚、不覚。何たるまづい戦をしたものか」
孫権は、敗軍をまとめて、その損傷の莫大なのに、胆(きも)をすくめながら、無念さうに繰返してばかりゐた。
重傷の綾統(ママ)は、全身の瘡(きづ)をつゝんで、なほ君前にゐたが、
「思ひ合せれば、晼城の勝(かち)軍(いくさ)が、すでに今日の敗因を醸してゐたものです。部下の端までが、餘りに勝に驕(おご)つて、敵を甘く見くびり過ぎた結果でせう。わけて此(この)際(サイ)、君には、よい御教訓となつたことゝ思はれます。御(おん)身(み)すなはち呉の万民の主たることを、くれ/゛\お心に、御銘記あるようおねがひします。今日、お体だけでも無事だつたのは、まつたく天地神明の御加護といふもの。むしろ歓ぶべき事と存じます」と、歯に衣(きぬ)着せず云つた。
「慚愧(ザンキ)にたへない。一生の戒めとする」
孫権も涙を流してつぶやいた。
しかし、大事はこゝに一頓挫をきたした。呉軍は、新手を加へて、再装備の必要に迫られ、つひに大江を下つて、呉の濡須まで引返してしまつた。
遼(レウ)来々(ライ/\)。遼来々。
呉の国では、幼い子ども迄(まで)が、魏の張遼の名を覚えて、子が泣くと、母はさう云つて、泣く子をすかした。
以ていかに、張遼の勇と、その智が、呉兵の胆(きも)に、ふかく刻みこまれたかゞわかる。
張遼は、みづから、
「これは、望外な奇捷(キセウ)だ」
と、云つてゐた。
すぐ急使を漢中に送り、ひとまづ戦況を報告して、なほ、他日のために、大軍の増派を要請した。
「この儘(まゝ)、蜀へ進まんか。ひとたび還つて、呉を討つがよいか」
曹操も、この二大方向の去就に、迷つてゐたところだつた。
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[註記]文中の「晼城」は原典では日偏ではなく白偏(白+宛)につくります。文字コード中に存在しない文字のため「晼」で代用しています。また、「白+宛」は、正史『三国志』呉書呉主伝や甘寧伝、淩統伝等に登場する皖を指すと思しく、事実、『三国志演義』の古本である嘉靖壬午序本等は「皖」に作ります。しかし、『演義』本邦初訳である『通俗三国志』の底本と目される『三国志演義』李卓吾批評本は「白+宛」に作っており、『通俗三国志』ひいては、これを参照する吉川三国志も「白+宛」という表記を踏襲しているものだと思われます。
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