吉川英治『三国志(新聞連載版)』(873)鵞毛(がもう)の兵(一)
昭和17年(1942)7月29日(水)付掲載(7月28日(火)配達)
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いま漢中は掌(て)の中(うち)に収めたものの、曹操が本来の意慾は、多年、南方に向つて旺(さかん)であつたことはいふ迄(まで)もない。
いはんや、呉といへば、あの赤壁の恨みが勃然とわいて来るに於てはである。
「漢中の守りは、張郃、夏侯淵の両名で事足りなん。われは南下して、直(たゞち)に呉の濡須にいたらむ」
曹操は決断した。壮図なほ老いずである。江を下る百帆の兵船、陸(くが)を行く千車万騎、すでに江南を呑むの概を示して、大揚子江の流れに出で、呉都(ゴト)秣陵(マツレウ)の西方、濡須の堤(つゝみ)へ迫つた。
「来れ、遠路の兵馬」
と、呉軍は待構へてゐた。彼が長途のつかれを討つべく。
その先陣を希望して、われに、自分にと、争つた者は、又しても、宿怨ある甘寧と綾統(ママ)だつた。
「ふたりで行け。綾統(ママ)を第一陣に、甘寧を二陣として」
孫権も、他の諸大将と、輪陣を作つて、堂々、あとから押出した。
濡須一帯は、戦場と化した。曹操の先鋒は、泣く子も黙る張遼と見えた。功に逸(はや)つた綾統(ママ)は敵の見さかひもなくそれに当つた。巖(いは)に砕ける浪(なみ)のやうに、ぶつかつた方の陣形が微塵になつて分離するのが、遠く、孫権の本陣からも見えた。
「綾統(ママ)が危(あやふ)い。呂蒙々々、馳せ行つて、綾統(ママ)を救ひ出せ」
「おうつ」
と、呂蒙は一軍を率ゐて駈け出した。
そのあとへ、甘寧が来て、
「案外、敵は堅固です。総勢約四十万、さすがにどの陣も、疲労を見せてをりません。これに、長途の疲労あるものと、正面からかゝつては、大きな誤算となりませう。てまへに、屈強の兵百人をおさづけ下さい。今夜、曹操の本陣を脅やかしてごらんに入れます」
「わづか百人で」
「仕損じたらお嘲(わら)ひ下すつてもかまひません」
「おもしろい」と孫権は彼の希望を容れた。特に直属の精鋭中から百人を選んで与へた。
甘寧は夕方、その百勇士を自分の陣所に招いて、一列に円くなつて坐り、酒十樽、羊の肉五十斤を供へ、
「これは呉侯からの拝領物だから、存分に飲(や)つてくれ」
と、まづ自身、銀(しろがね)の碗で一(ひと)息(いき)にほして、順々にまはした。
肉を喰ひ、酒をあふり、百名は遺憾なく近来の慾をみたした。そこで甘寧は、
「もつと飲め、もつと喰へ。今夜この百人で、曹操の中軍へ斬込むのだ。あとに思ひ残りのないやうにやれ」
と、告げた。
一同は顔を見あはせた。酔つた眼(め)色も急にうろたへてゐる。こんな百人ばかりの勢でどうして?——と云はんばかりな顔つきだ。
甘寧は、さツと、剣を抜き、起(た)つて、慨然と、叱咤した。
「呉の大将軍たる甘寧すら、国のためには、生命を惜(をし)まぬのに、汝等身を惜んでわが命令に怯(ひる)むかつ」
違背する者は斬らんといふ前(まへ)触(ぶれ)である。こゝで死ぬよりはと、百勇士は悉(こと/゛\)く、剣(ケン)の下に坐り直して、
「ねがはくは将軍に従つて死を倶(とも)にしたいと思ひます」
と、ぜひなく誓つた。
「よし。では銘々、合(あひ)印(じるし)として、これを盔(かぶと)の真向へ挿してゆけ」
と、白い鷲(あひる)の羽を一本づつ手渡した。
夜も二更を過ぎると、この一隊は筏(いかだ)にのつて水路を迂回し、堤にそひ、野をよぎり、忍びに忍んで、つひに曹操の本陣のうしろへ出た。
「それつ、銅鑼(ドラ)を打て、鬨(とき)の声をあげろ」
柵へ近づくや、立ち所に哨兵(セウヘイ)を斬(きり)捨て、わつと一斉に、陣中へ入つた。
たちまち、諸所に、火の手があがる。
暗さは暗し。曹操の旗本は、右往左往、到る所で、同士(ドウシ)討(うち)ばかり演じた。
甘寧は、思ふ存分、あばれ廻つた。時分はよしと、百人を一ケ所にあつめ、一兵も損ぜず、風のごとく引返して来た。
「将軍の胆(きも)は、さだめし曹操の魂を挫(ひし)いだであらう。痛快、痛快」
孫権は、刀(かたな)百(ヒヤク)口(ふり)、絹千匹を贈つて、彼を賞した。甘寧はそれをみな百人に頒(わ)けた。
魏に張遼あるも、呉に甘寧あり——と、呉の士気は、為に大いに振つた。
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