吉川英治『三国志(新聞連載版)』(868)漢中併呑(四)
昭和17年(1942)7月23日(木)付掲載(7月22日(水)配達)
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何事かと、取るものも取あへず帰つてみると、張魯は、龐徳のすがたを見るや否や、
「この忘恩の徒め。よくも曹操と内通して、わが軍を売つたな」
と、思ひもよらぬ怒り方で、果ては首を刎(はね)んと罵つた。
「まづ、まづ、さうお怒り遊ばしては、実(み)も蓋もありません。一応、龐徳の陳辯を聞いて、身の潔白を称(とな)へるなら、再度、功を立てさせてみたら如何なものでせう」
これは、傍(かたはら)に在つた閻圃のとりなしであつた。
結局、張魯は、閻圃の諫めに従つて、
「——では、一命をあづけおくが、再び前線へ出て、大功を立てぬときは、必ず軍律に照らして、その首(かうべ)を陣門に梟(か)けるであらう事を、よく胸に銘記しておけよ」
と、ひとまづ宥(ゆる)した。
龐徳の胸中には察すべきものがある。彼は、怏々(ワウ/\)と楽しまぬものを抱(いだ)いて、ぜひなく再び戦場へ出た。
「辛(つら)いかな一日の恩!」
彼は、敢て無謀な戦闘へ突入した。悲壮な自滅を覚悟したものとみえる。単騎、敵陣へ深く斬入つて、帰らうとしなかつた。
そのとき一つの丘の上に、曹操のすがたが見えた。曹操は、そこから呼びかけた。
「龐徳々々。どうして急に犬死を焦るか。なんで我に降伏して大丈夫の生命を完うしようと思はないのだ」
「なにを!」
龐徳は、丘へ向つて、馬を躍らせた。正しく、又なき死出の道づれと眼をつけたものであらう。
然るに、彼は忽然と、丘のふもとで、その影を地上から失つてしまつた。深さ二十尺もある陥(おとし)穽(あな)の底へ、馬もろとも落ちてしまつたのである。
美禽はつひに曹操の籠に入つたのだ。龐徳は、降伏して、その日から曹操の一臣に列した。
——伝へ聞いた張魯は、
「楊松の云つたとおりだ」
と、いよ/\楊松を信頼して、何事も彼に諮つたが、もう南鄭も落城し、漢中市街は、曹軍の鉄環(テツクワン)につゝまれんとしてゐた。
すでに外郭の防禦も抛棄して、味方は四散し出したと知ると、張魯の弟の張衛は、
「全市全城を焼払はう」
と、焦土戦術を主張し、楊松は反対して、
「すみやかに降伏し給へ」
と、無血譲渡をゝすめた。
張魯は、顚倒(テンタウ)の中にも、
「国財は、民の膏血(コウケツ)から産れた国家の物である。私にこれを焼棄(シヨウキ)するは、天を怖れぬものだ」
と、よく事理を分別して、城内の財宝(ザイハウ)倉廩(サウリン)に、こと/゛\く封を施し、一門の老幼をつれて、その夜二更の頃、南門から落(おち)のびた。
占領後、曹操は、
「官庫の財宝を封印して、兵火や掠奪から救ひ、その儘(まゝ)、次代の司権者に渡すとなした張魯の行ひは、けだし張魯一代の善行といへよう。神妙な仕方といふべきだ」
人を巴中(ハチユウ)に派して、もし降参するなら、一族は保護してやらうと云ひ送つた。
楊松は、すゝめたが、張衛は何としてもきかない。勝目のない抗戦をつゞけ、我から求めて討死してしまつた。
残敵を掃蕩しながら、曹操が巴中へ出馬して来た機に、張魯は城を出て、つひに其(その)馬前に拝伏した。
もちろん楊松が側についてゐた。楊松は内心、自分の功を、非常に高く評価してゐる顔つきである。
それには眼もくれず、曹操は馬を降(くだ)つて、張魯の手を取つた。そして慰めて云つた。
「倉廩を封じて、兵燹(ヘイセン)から救はれた事は、まさに天道の嘉(よみ)すところである。曹操は、そのお志に対し、足下を鎮南将軍に封じるであらう」
なほ、旧臣のうち、五人を選んで、列侯に加へたが、その中に、閻圃の名はあつたが、楊松の名は洩れてゐた。
楊松は、ひそかに自負すらく、
「おれには、もつと大きな恩爵が、やがて沙汰されるにちがひない」——と。
漢中平定の祝賀日。
街の辻に、首(くび)斬(きり)が行はれた。罪人の首は細々(ほそ/゛\)と痩せてゐる。見物人は物を喰ひながら、早く細首を落せと面白さうに騒いでゐた。うらめしげに罪人は、見物人を見まはした。何ぞはからん、それが楊松であつた。
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