吉川英治『三国志(新聞連載版)』(867)漢中併呑(三)
昭和17年(1942)7月22日(水)付掲載(7月21日(火)配達)
ターミナルページはこちら(外部サービス「note」にリンク)
前回はこちら → 漢中併呑(二)
***************************************
「馬超はすでにこの国に居ないのに、馬超の一族の龐徳だけが、どうしてひとり漢中に残つてゐるのか」
人々の中では、いぶかる者もあつたが、張魯はもちろん知つてゐた。
馬超が、蜀の葭萌関へ征(ゆ)くとき、龐徳だけは、病(やまひ)のために、行(カウ)を共にしなかつたのである。その後、病も癒えて、近頃は元気だとも聞いてゐる。
「なるほど、彼ならば!」
と、張魯は膝を打つて、閻圃の進言を容れ、すぐ呼びにやつた。
龐徳は、これへ来て、重大な命をうけるや、
「この国へ来て、一日の恩養をかうむる以上、この国の難を傍観しては義に反(そむ)く」
と、一言のもとに伏して、張魯の手から将旗を受領し、兵一万餘騎を併せうけて、直(たゞち)に前線へ赴いた。
——龐徳来る!
と、聞くと曹操は、
「彼は、西涼の勇将でまた、馬超の股肱であつた者。何とかして手捕になし、魏の味方にしたいものだ。各々その心得あれよ」
と、全軍の諸将へ内示した。
「さらば彼を気(き)労(づか)れさせむ」
と、諸軍は専ら神経戦をたくんで、一番二番三番四番——と数段に備へを立て、いわゆる車掛りとなつて、順番に接戦しては忽ち退き、また新手(あらて)が出てはすぐ次へ代る——といふ戦法を取つた。
しかし龐徳は疲れない。就中(なかんづく)、この間にさへ、許褚と馬を馳け合せ、烈戦五十餘合に及んで、勝負なしに引分れながら、なほ餘裕(ヨユウ)綽綽(シヤク/\)として、次の備へに当つてゐた。
「さすがは、西涼の龐徳。近ごろ見ない絶倫な武藝者だ」
敵ながら天晴(アツパレ)なと、魏の全軍中で、大きな評判になつた。
「さもあらん」
と、曹操も北(ほく)叟(そ)笑(ゑ)んで、あだかも森林の中で、美しい小禽(ことり)でも追ひ廻してゐる少年のやうな心理に似て、
「何とか、生捕れんか」
と、爪を嚙んだ。
賈詡が一計をさづけた。
そのせゐか、翌る日の戦では、魏軍は崩れ立つて、十(ジフ)数(スウ)里(リ)退(ひ)いた。
龐徳は魏の陣屋を占領したがひつになく敵の勢いに手ごたへがないので、決して油断はしてゐない。
果せるかな、その夜半、魏の大軍が四方から起つて来た。龐徳は、
「その策(て)には乗らぬ」
とばかり、鮮(あざや)かに、南鄭城内へ引揚げた。
占領した陣屋には、たくさんな兵糧や軍需品があつたので、それらの鹵獲品(ロクワクヒン)はみな先に城内へ搬入させ、漢中の張魯へは、
「莫大なる戦利品を獲、且つ曹操の一陣営を占領す」
と、吉報を知らせておいた。
ところが、この戦利品搬入の雑(ザツ)軍(グン)の中に、魏の間諜が変装して混(まじ)つてゐたものとみえ、城内に住む楊松の邸(やしき)へ、その男がそつと訪ねて来た。
「てまへは、魏公曹操の腹心の者ですが——」と、男は怯(ひる)みもなく正面を切つて、さて、自分の肌に着けて来た黄金の「心当(むねあて)」と、曹操直筆の書簡とを取出して、
「まづ、御一覧ください」
と、云つた。
楊松は漢中の重臣だが、つねに賄賂を好み、悪辣な貪慾家としては有名な者だつたから、黄金の「心当(むねあて)」を見るとまづ眼を細めて
(……ほう。大した物)
と、垂涎(スイゼン)せんばかりな顔いろを示した。
のみならず曹操の文には、彼が夢想もしなかつた恩爵の好餌をもつて、裏切をすゝめてある。
「よろしい。畏(かしこ)まつた」
一も二もなく、楊松は、内応を約した。
彼は、漢中へ行つて、すぐ張魯へ讒言(ザンゲン)を呈した——すなはち龐徳の行動をである。
「馬超の身内は、やはり馬超の身内でしかありません。彼は本気で戦つてゐないのです。折角、魏の陣屋を占領しながら、忽ち、それを敵に返し、態(テイ)よく南鄭城へ引つこんでゐるといふ調子です。察するところ、曹操と内通してゐるかも知れません。ひとつお調べになる必要がありませう」
張魯はこの佞辯(ネイベン)にのせられて、すぐ龐徳を呼び返した。
***************************************
次回 → 漢中併呑(四)(2026年7月22日(水)18時配信)

