吉川英治『三国志(新聞連載版)』(866)漢中併呑(二)
昭和17年(1942)7月22日(火)付掲載(7月20日(月)配達)
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この陽平関の序戦では、魏の先鋒が、大敗を喫した。
敗因は、魏の兵が地勢に暗かつた事と、漢中軍がよく奇襲を計つて、魏の先鋒を、各所で寸断し、その孤立した軍を捉へては殲滅(センメツ)を加へるといふ戦法に出たことが、奏功したものと見えた。
「若い若い。汝らの攻撃を見てゐると、まだまるで児戯にひとしい」
曹操は、自己の中軍へ、前線からなだれ打つて逃げて来た先鋒の醜態に怒つて、その大将夏侯淵と張郃にさう云つた。
そして自身、先陣を編制し、許褚と徐晃を従へて、一高地へ上つた。
陽平関の敵が見える。曹操は鞭をさして、
「あれが張衛の陣か、程の知れた布陣、何事の事があらう」
と、云つた。
そのことばと同時に、背後の一山から、驟雨(シウウ)のやうに矢が飛んで来た。愕(おどろ)いて急に振(ふり)かへると、敵の楊昂、楊任、楊平(ヤウヘイ)などの旗じるしが、攻(sめ)鼓(づゝみ)に士気を振(ふる)つて、
「網中の大鵬(おほとり)を逃がすな」
と、麓の退路を断ちにかゝつた。
この日から次の日の戦争にかけて、魏軍は又しても莫大な兵を損じた。三日目にも挽回がつかず、曹操も苦戦に陥ちて、万死のうち一生を拾つて逃げ帰つたほどである。
陣を七十里ほど退(ひ)いて、対峙すること五十餘日、曹操も、容易に抜き難いことを覚(さと)つたか、
「ひとまづ許都へ還つて、更に出直そう」
と、布(ふ)令(れ)た。
一夜のうちに、魏の旌旗(セイキ)は、忽然と搔(かき)消えた。漢中軍の帷幕(ヰバク)では
「いまこそ退く魏兵を追つて、徹底的に殲滅すべし」
となす楊昂の説と、
「いやいや、曹操は謀計の多い人物だ。〔うか〕とは追えない」
といふ楊任の説とが対立してゐたが、結局、楊昂は我説を張つて、遂に、五寨の軍馬を挙げて、追撃に出てしまつた。
漢中の破滅はこれが重大な一因を成した。せつかくこれまで勝(かち)続けてゐたものを、曹操の計(はかり)に乗つて一遍に無にしたものであつた。
なぜならば、その日、霧風(ムフウ)といつて、大陸的な気流の烈しい中に、咫尺(シセキ)もわかたぬほど濃霧がたちこめてゐたのである。楊昂の軍勢が出た夕方、
「開門つ、開門つ」
と、陽平関の下で、軍馬が犇(ひし)めき叫ぶので、必定、味方が帰つたものと考へ、門をひらくと共に、何ぞはからん、魏の夏侯淵が三千の精鋭をつれて、どつと突き入つて来たのだつた。
奇襲好きな関中軍(ママ)へ、こんどは逆手を取つて、奇襲したものである。魏兵は城内へ混み入るなり八方へ火を放(か)けた。夜に入るし、留守は手薄であつた為、焰の城頭たかく、忽ち、魏の旗が立てられてしまつた。
総司令の張衛は、逸(いち)早く、南鄭(ナンテイ)(陝西省・漢中ノ一部)へ逃(にげ)落ちてしまひ、楊昂は、後方の火の手に愕(おどろ)いて、追撃を止め、あわてゝ引つ返して来るとその途中、
「待つてゐた」
とばかり穏れてゐた許褚だの徐晃だのといふ猛将の手勢に捕捉されて、完膚なきまでに粉砕され、楊昂自身も、敢(あへ)なく屍(かばね)を野にさらしてしまつた。
残る楊任も、張衛のあとを追つて南鄭関へと逃げのびて行つたが、この惨(みぢ)めな敗戦に、漢中の張魯は激怒して、
「それ以上、退(ひ)く者は、即座に首を刎(はね)る」
と、厳重な督戦令を出した。そのため楊任は、ふたゝび陽平関さして、戦ひに帰つて行つたが、途中、猛進して来た夏侯淵と出会つて、これもまた敢(あへ)なく路傍に戦死してしまつた。
曹操の大軍は、切(きり)ひらく先鋒の快足につゞいて、陽平関を抜き、続いて、南鄭関まで一(ひと)息(いき)に来てしまつた。
漢中の府は、すでに指呼のあひだにある。張魯は、事態の重大に、震へあがつて、
「いまや存亡の最後に迫つた。誰(たれ)かこの危急に当つて、漢中を救ふものはないか」
と、文武の百官に大呼した。
「それは龐徳しかありますまい。馬超がこの国へ連れて来たあの龐徳、字(あざな)を令明(レイメイ)といふあの人物しかありません」
漢中の一将、閻圃(エンホ)はさけんだ。
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