吉川英治『三国志(新聞連載版)』(869)剣(けん)と戟(ほこ)と楯(たて)(一)
昭和17年(1942)7月24日(金)付掲載(7月23日(木)配達)
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司馬懿(シバイ)仲達(チウタツ)は、中軍の主簿(シユボ)を勤め、この漢中攻略のときも、曹操のそばにあつて、従軍してゐた。
戦後経営の施政などには専ら参与して、その才能と圭角をぽつぽつ現はし初めてゐたが、一日、曹操にかう進言した。
「魏の漢中進出は、西蜀を震駭(シンガイ)させ、玄徳を狛(おそ)れ惑はせてゐるやうです。彼の性は、遅にして鈍重、もし丞相がこの時に、疾風迅雷のごとく蜀に入り給へば、玄徳の緒業(チョゲフ)は、瓦を崩すが如く砕け去るにちがひありません」
重臣の劉曄も、
「仲達の意見は、まつたくわれわれの考へを代表してゐます。年月を経ては、文治に孔明あり、武門に関羽、張飛、趙雲、黄忠、馬超などの五(ゴ)虎(コ)あり、以前とちがつて、錚々たる勇将を揃へてゐるので、もう滅多に玄徳を破ることは難しくなると思ひます。討つなら、今のうちでせう」
と、頻(しき)りに云つた。
これが以前の曹操だつたら、一議に及ばぬことであらうが、赤壁の頃から、すでに彼も老齢に入る兆(きざし)が見えてゐた。この時も、
「隴(ロウ)を得て、またすぐ何か、蜀を望まん。わが軍の人馬も疲れてゐる。まあ、もうすこし休息させる必要もあらう」
と、急に動く気色もなかつた。
一面。蜀の実情は、魏軍の目ざましい進出に対して、たしかに深刻な脅威をうけ、流言(リウゲン)蜚語(ヒゴ)は旺(さかん)に、今にも曹操が、蜀境を突破して来るやうな事を流布してゐた。
何分にも、更生の蜀は、玄徳に依つて、新秩序が立てられてから、まだ日も浅いので、玄徳自身、多大の危惧を感ぜずにゐられなかつた。
その対策について、相議する時、孔明は明確に、方針を説いた。
「魏が膨脹を欲するのは、たとへば伸びる生物の意慾みたいなものですから、その意慾を他へ向け更(か)へて、ほかへ伸展し、ほかへその精気を注がしめれば、即ち当分のうちは、蜀は無事を保ち得ませう。そのあひだに国防を充実することです」
と、前提してから、「それには今、能辯な士を呉へ使に立てゝ、先に約した荊州三郡を、確実に呉へ返し、且つ、時局の険悪と、利害を説き、孫権をして、合淝(ガツピ)の城(安徽省・廬州)を攻めさせるのです。——こゝは魏にとつて重要な境なので、さきに曹操が張遼を入れて守らせてある程ですから、魏は忽ち、そこに神経をあつめ、必然、蜀よりはまづ南方へ伸びて行かうとするに違ひありません」
「計は甚だ遠大だが、さて、そんな外交的手腕を、誰(たれ)が任じて赴(ゆ)くか」
玄徳が、坐中を見まはした時、ふと一人の者と眼を見あはせた。その者はすぐ起(た)つて、
「私が行きませう」
と、神妙に云つた。諸人が、誰(たれ)かと見ると、それは伊籍であつた。
「伊籍ならば」
と、孔明もうなづいたし、満座もみな彼に嘱した。即ち、玄徳の書簡を載せて、伊籍は遠く長江を下つた。
呉へ着く前、伊籍は、荊州へ上陸して、ひそかに関羽に会つた。もちろん玄徳の内意と孔明の遠謀を語つて打合せをすましておく為である。
呉では、この交渉をうけて、諸論区々にわかれた。或る者は、過日の関羽の無礼をなほ憤つてゐて、
「断じて受けるな」
と云ひ、或る者は、
「それを拒んだら、荊州全体の領有まで、呉から棄権した事とならう。三郡だけでも受取つておくべきだ」
と主張する者も多い。
また、使者の伊籍が説くには、
「——それと共に、呉が合淝をお攻めになれば、曹操は漢中に居たたまれず、急遽、都へ引揚げませう。玄徳は、直(たゞち)に、漢中を取ります。そして関羽を召返して、漢中に入れ、荊州全土は、そつくり呉へ返上申す考へである」
と云ふのだつた。
だから、三郡を受取るには、条件付のやうなものだつたが、結局、張昭や顧雍(コエウ)などの意見も、みなそれに傾いたので、孫権もつひに肚(はら)をきめて、伊籍からの交渉を全部容認し、ふたゝび魯粛を荊州接収のため現地へ派遣した。
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