吉川英治『三国志(新聞連載版)』(864)冬葉(とうえふ)啾々(しう/\)(三)
昭和17年(1942)7月18日(土)付掲載(7月17日(金)配達)
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「魏公の命だ——」といふことは彼等にとつて絶対だつた。世はまさに逆(さか)しまである。鎧(よろ)うた御林の兵(近衛軍)は大将の郄慮(ゲキリヨ)を先頭に禁園犯すべからざる所まで、無造作になだれこんで行つた。
折ふし、帝は外殿に出御してをられたが、物音に愕(おどろ)かれて、
「何事ぞ」
と、侍従たちを顧みられた。
郄慮が、づか/\とそこへ来た。そして無礼極まる態度をもつて、
「仔細これ有、今日、魏公曹操のお旨により、皇后の璽綬(ジジユ)を奪(と)り収めらる。左様お心得ください」と、云つた。
愕然、帝は色を失はれた。
「さては」
と、早くもお胸のうちに、穆順の捕はれたことを覚られたからである。
すでに内裏の方(かた)ではたゞならぬ震動のうちに女官たちの悲鳴がながれてゐた。土足で後宮を馳けまはる暴兵たちは、口々に、
「皇后(きさき)はどこへ隠れたか」
と、罵り/\捜してゐた。
伏皇后は、逸(いち)はやく、宮女に扶(たす)けられて、内裏の朱庫(シユコ)の内へかくれてをられた。こゝには二重壁があつて、壁の中へ身を塗りかくしてしまふ仕掛がしてあつた。
郄慮(ゲキリヨ)も来て、
「この中が怪しい。尚書令の華歆(クワキン)を呼んで来い」
と、協力をうながし、共に朱庫の扉(と)を破つて、内部へをどりこんだ。
けれどもこゝにも見えなかつた。郄慮は外へ戻らうとしたが、尚書令はその職掌がらこの構造を知つてゐるので、剣を抜いて壁を切り開いた。忽ち壁は鮮血を噴き、その中から伏皇后には悲鳴をあげて転(まろ)び出られた。
忌むべし、眼(まなこ)を蔽(おほ)ふべし。朝廷とか臣道とかの文字はあつても、自ら「道の国」と称しても、ひとたび覇者の自我が振うときは此(この)国(くに)にはこんな非道が平然と行はれたのであつた。華歆は、后(きさき)の黒(くろ)髪(かみ)をつかんで曳きすゑ、后(きさき)が、
「助けよ」
と、呼ばると、華歆は、
「直接、魏公に会つて哭(な)け」
とばかり取合はなかつた。そして素足のまゝ引つ立てゝ、曹操のまへに連れてゆくと、曹操は、はツと后を睨みつけて、
「われ曽(か)つて、汝を殺さざるに、却(かへ)つて、汝われを殺さんと謀る。この結果は、いまに思ひ知らしてやる」
と、云つた。そして、武士に命じて、鞭や棒で乱打を加へたから、皇后はもだえ苦しみながら遂に息絶えてしまつた。
その悲鳴や曹操の罵る声は、外殿の廊まで聞えて来たほどだつた。帝(テイ)は御(お)髪(ぐし)をつかみ、身を慄はせて、天へ叫び、地へ昏絶された。
「こんなことが、天日(テンジツ)の下(もと)に、あつてもいゝものか、この地上は、人間の世か、獣の世か」
血も吐かんばかりな有様に、郄慮は武士の手を借りて、むりやりに帝を抱へまゐらせ、秘宮のうちへ閉ぢ籠(こ)めた。
曹操は、毒に酔へる人みたいに、もうどんな事でも平然とやつて退(の)けた。伏完の一門から穆順の一族縁類の端まで、総計二百何十人といふ男女老幼を、この日たつた半日のまに残らず捕へて、宮衙門(キウガモン)の街辻で、首斬つてしまつた。
とき建安十九年十一月の冬、天もかなしむか、曇暗(ドンアン)許都の昼を閉ぢ、枯葉の啾々と御林に哭いて、幾日も/\衙門(ガモン)の冷霜(レイサウ)は解けなかつた。
「陛下。承れば供御(グギヨ)の物も、連日お召(あが)りにならない由ですが、どうかもう宸襟(シンキン)を安んじていたゞきたい。臣も、何とてこれ以上、情(なさけ)のない業(わざ)をしませう。本来、無情は曹操の好んでする事ではないのですが、あゝいふ問題が表面化しては、捨ておくわけには参らないではありませんか」
曹操は、一(イチ)日(ジツ)、朝へ出て、幽愁そのものゝ裡(うち)に閉ぢ籠つてをられる帝へ奏した。
そしてまた、自身の女(むすめ)を、強ひて皇后(きさき)にすゝめ参らせた。帝も拒むお力はなく、彼の言に従はれて、つひに翌春の正月、晴れて曹操の一女は、宮中に入り、皇后の位に即(つ)いた。当然、それとともに曹操もまた、国舅(こくきう)といふ容易ならぬ身分を加へた。
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