吉川英治『三国志(新聞連載版)』(862)冬葉(とうえふ)啾々(しう/\)(一)
昭和17年(1942)7月16日(木)付掲載(7月15日(水)配達)
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魏の大軍が呉へ押(おし)襲(よ)せて来るとの飛報は、噂だけにとゞまつた。
噓でもなかつたが、早耳の誤報だつたのである。
この冬を期して、曹操が宿望の呉国討伐を果さうとしたのは事実で、すでに南下の大部隊を編制し、各部の諸大将の任命も内々決定してゐたのであるが、参軍の傅幹(フカン)といふ者が、長文の上書をして、
一、今はその時でない事
一、漢中の張魯、蜀の玄徳などの動向の重大性
一、呉の新城秣陵の堅固と長江戦の至難
一、魏の内政拡充と臨戦態勢の整備
等の項目にわたつて諫言したので、曹操も思ひ直して出動を見あはせ、しばらくは猶(なほ)、内政文治に専ら意をそゝぐことゝした。
新に、文部の制を設け、諸所に学校を建てゝ、教学振興を計つた。
彼がかうして、少し善政を布(し)くと、すぐそれを誇大に称(たゝ)へて、お太皷をたゝく連中もできてくる。
宮中の侍郎(ジラウ)王粲(ワウサン)、和洽(クワガウ)、杜襲(トシフ)などゝいふ軽薄輩で、
「曹丞相はもう魏王の位に即(つ)かるべきだ。魏王になられたところで、何のふしぎもない」
と、運動をしはじめた。
うはさを聞いて、荀攸(ジユンシウ)が固く止めた。さすがに曹操を扶(たす)けて来た賢臣である。お太皷連をたしなめてかう云つた。
「さきに九錫の栄をうけて、魏公の金璽(キンジ)を持たれたのは、いはゆる人臣の位を極めたといふもの。その上なほ、魏王の位に進まれたら、俗にいふ、天井を衝いて、人心の反映は、決して、曹丞相によい結果は齎(もたら)さないでせう。あなた方にしても、それでは贔屓のひき倒しといふことにならう」
これが人(ひと)伝(づ)てに、曹操の耳へ入つたのである。もちろんその間に、為にする者の肚も入つてゐるから、曹操は非常な不快を感じた。
「荀攸もまた、荀彧に倣はうとするのか。ばかなやつだ」
非常に立腹して、そう罵つたと聞えたから、それを又、人伝てに耳にした筍攸は、ゐたく気に病んで、門を閉ぢて自ら謹慎したまゝ遂に、その冬、病死してしまつた。
「五十八歳で世を去つたか。……彼も功臣のひとりだつたが」
死んでみると、曹操は、痛惜にたへないやうに呟いて、盛んな葬祭を執り行つた。
で、魏王に即(つ)く問題は、しばらく沙汰(サタ)止(やみ)になつてゐたが、この事は、宮廷の諫議郎(カンギラウ)趙厳(テフゲン)(ママ)から、帝の御耳へも入つてゐた。
「……趙厳が、市へ曳き出されて、斬られたさうです。おそろしい曹操」
玉座へかう告げにきた。
帝も、玉体を震はせ給うて、
「つい今朝までも、禁裡に仕へてゐたものが、夕べにはもう市で命を失うてゐたか。朕(チン)も后(きさき)も、いつかは同じ運命に遭ふであらう。曹操の増上慢が極まることを知らない限りは」
幽宮の秘窓に、おふたりの涙は渇かなかつた。事実曹操の威と、許都の強大が、旺(さかん)になればなるほど、朝廷の式微は、反比例に衰へを増し、こゝに献帝のおはすことすら魏の官民は忘れてゐるやうだつた。
「かうして朝夕、針の莚(むしろ)にあへなく生きてゐるよりは、わたくしの父(ちゝ)伏完(フククワン)に、御決意のほどを、そつと御(お)降(くだ)しあれば、父はきつと、曹操を刺す謀をめぐらしませう……。穆順(ボクジユン)なれば確(たしか)です。あれをお遣(つかは)し遊ばしませ」
伏皇后は、つひに思ひきつて帝の御意をかう動かした。
もとより献帝の御隠忍は年久しいことだつたので、胸中の埋(うづ)み火は、忽ち、理性の灰を除いてしまつた。厳しい監視の眼をしのんで秘勅の一文を認(したゝ)められた。
これを穆順といふ一朝臣にあずけて、そつと、伏皇后の父君(フクン)にあたる伏完のやしきへ持たせてやつたのである。忠節無二な穆順は、御詔書を、髻(もとどり)の中にかくして、この命がけの使に、一夜禁門から出て行つた。
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