吉川英治『三国志(新聞連載版)』(861)臨江亭(りんかうてい)会談(四)
昭和17年(1942)7月15日(水)付掲載(7月14日(火)配達)
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魯粛も呉の大才である。かう口を開いて、この会談の目的にふれて来ると、その舌鋒は、相手の急所をつかんで離さなかつた。
「いや、恩着せがましく申しては、御不快かも知れぬが、あの折、敗亡(ハイバウ)遁竄(トンザン)の果(はて)、御一身を容るゝ所もなき皇叔に、愍(あは)れみをかけた御方は、天下わが主おひとりであつた。後なほ、莫大な国費と軍馬を賭して、曹操を赤壁に破つたればこそ、皇叔にも、ふたゝび時に遭ふことができたといふもの。——然るに、蜀も取りながら、まだ荊州をお返しなきは、所謂(いはゆる)飽(あく)なき貪慾、凡下(ボンゲ)だに恥づる所業と云はれても仕方がありますまい。ましてや人の師表に立つ御方ではないか。将軍はどうお考へになりますか」
「……」
理の当然に、関羽も答へにつまつて、頭(かうべ)を垂れてゐたが、なほ、急所を押されると、苦しまぎれに、
「家兄(このかみ)の皇叔には、べつに正当な御意見があることでせう。それがしの与(あづか)り知ることではない」
と、云ひのがれた。
魯粛はすかさず、なほ語気に攻勢を取つて、
「皇叔とあなたは、むかし桃園に義をむすんで、心もひとつぞ、生死も共にと、お誓ひ合つた仲と承る。何で、与(あづか)り知らぬで世間が通しませうぞ」
と、たゝみかけた。
すると、関羽の側に立つてゐた周倉が、主人の旗色悪しと視たので、突然、
「天上地下、たゞ徳ある者が、これを保ち、これを政(まつり)するつ。豈(あに)、荊州を領する者、汝の主、孫権でなくてはならぬといふ法があらうかつ」
家(や)鳴(なり)するやうな声でどなつた。
はつと、色を変じながら、関羽は席から突つ立つた。そして周倉に持たせておいた偃月の青龍刀を引つ奪(た)くるやうに取ると、
「周倉、だまれつ。これは国家の重大事である。汝ごときが、みだりに舌をうごかすところではない!」
と、叱りつけた。
騒然と、亭中は色めき立つた。関羽がやにはに巨腕を伸ばして、魯粛の臂(ひぢ)を摑(つか)んで歩き出したのみでなく、周倉が亭の欄まで走つて、そこから江上へ向つて、頻(しき)りに、赤い旗を振つたのを見たからである。
「さあ、来給へ」
関羽は、大酔したふうを装ひながら、次第に大股を加へ、
「尠(すくな)くも一国の大事を、軽々と酒間に談じるのは、よろしくない。且つは甚だしく久濶(キウクワツ)の情をやぶり、せつかくの酒興を傷つける。御返礼には、他日また、それがしが湖南に一会を設けて御招待するが、けふはひと先(ま)づお別れとしよう。酔客のために、江岸の舟まで送つて来給へ」
人々が、あれよと立(たち)躁(さわ)ぐ間に、もう亭を降(くだ)り、園を抜け、門外へ出てゐた。魯粛の肥えた体も、関羽の手にはまるで小児を提(さ)げて行くやうだつた。
魯粛は、酒もさめ果て、生きた空もない。耳のそばを、ぶん/\風が鳴つたと思ふと、忽ち、江岸の波(なみ)打(うち)際(ぎは)が見えた。
こゝには呂蒙と甘寧とが、大兵を伏せて、関羽を討ち漏らさじと鉄桶の構へを備へてゐたのであるが、関羽の右手に、見る眼も眩(くら)むばかりな大(おほ)反(ぞり)の偃月刀が持たれてゐる事と、また片手に魯粛が摑(つか)まれてゐるのを見て、
「待て」
「迂濶に出るな」
と、制し合つてゐた。
そのまに、周倉が寄せた小舟へ、関羽はひらりと飛び乗つてしまつた。そして初めて、魯粛を岸へ突つ放し、
「おさらば」
と、一語、岸を離れてしまつた。
甘寧、呂蒙の兵が、弓をならべて、矢を江上へ射つたが、一舟は悠々帆を張つて、順風を負ひながら、対岸から出迎へに来た数十艘の快舟(はやぶね)のうちへ伍して去つた。
交渉、こゝに破れ、国交の断絶は、すでに避け難い。
魯粛のつぶさな書状を捧じて、早馬は呉の秣陵へ急ぎに急ぐ。
呉の国都には、これと同時に、べつな方面から、魏の曹操が、三十万の大軍をもつて、南下しつゝあるといふ飛報が入つてゐた。
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