吉川英治『三国志(新聞連載版)』(860)臨江亭(りんかうてい)会談(三)
昭和17年(1942)7月14日(火)付掲載(7月13日(月)配達)
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「参る。よろしく云つてくれ」
簡単に承諾して、関羽は使を返した。
関平は驚いた。且つ危ぶんで、父に諫めた。
「魯粛は、呉でも、長者の風のある人物とは聞いてゐますが、時局がこんな場合、いかなる陥穽(カンセイ)を構へてゐるか知れたものではありません。千金の重き御身を、さう軽々(ケイ/\)にうごかし遊ばすのは、如何と思ひますが」
「案じるな」
関羽はあくまで簡単に云ふ。
「供は、周倉一名をつれて行く。そちは精兵五百人に快舟(はやぶね)二十艘をそろへ、此方(こなた)の岸に遠く控へてをれ。——そしてもし父が彼方の岸で、旗をあげて招くのを見たら、初めて船を飛ばして馳せつけて来い」
「かしこまりました」
関平は、父の命に従ふしかなかつた。
その日になると、関羽は、緑の戦袍(したゝれ)を着、盛冠花鬚(セイクワンクワビン)、一(ひと)際(きは)装つて小舟にのつた。供の周倉は、面(おもて)は蛟(みづつ)のごとく青く、唇は牙をあらはし、腕は千斤も吊るべしと思はれる鉄色の肌をしてゐる。その周倉が、桃園の義盟以来、関羽が常に離すことなき八十二斤の青龍刀を持つて、主人のうしろに控へてゐた。
また、小舟には、紅(くれなゐ)の旗を一すぢ立てゝゐた。「関(クワン)」の一大文字が書ゐてある。江風(カウフウ)はゆるやかに、波は凪(な)いで、舟中の関羽は眠くなりさうな眼をしてゐた。
「……や、ひとりで来る」
「あれが関羽か?」
対岸では、呉の人々が、眩(まぶ)しげに手を翳(かざ)し合つてゐた。てツきり関羽は、大勢の兵をつれて来るだらう。——さう豫期してゐたものらしい。もし大兵を連れて来たら、鉄砲を合図に、呂蒙と甘寧の二軍でふくろ包みにしてしまはう。これが、魯粛の備へておいた、第一段の計であつた。
ところが案に相違して、関羽は常にもなく華やかに装ひ、供ひとりを従へて来たので、
「さらば、第二段の計で」
と、はやくも眼くばせを交はし合つてゐた。
会場臨江亭の庭後には、屈強な武士ばかり五十人を伏せて、こゝへ関羽を迎へたのである。もちろん沿道の林間、園内随所の林泉の陰にも、雑兵は充満してゐる。ひとたびこゝへ入つたからには、天魔鬼神でも生きて出ることはできないやうになつてゐる。とはいへもちろん客の視野には、一すぢの素槍(すやり)の光だに、眼に触れないやうに隠してあつた。
亭は花や珍器に飾られ翠蔭(スイイン)頻(しき)りに美鳥が啼いてゐた。はる/゛\呉から舶載して来た南方の美味薫醸は、どんな貴賓を饗するにも恥(はづか)しいものではなかつた。
魯粛は、拝伏して、関羽を上賓の席に請じ、さて、酒をすゝめ、歌妓楽女をして、歓待させたが、話になると、眸を伏せた。関羽の眼をどうしても正視できなかつた。
しかし酒(さけ)半酣(ハンカン)の頃、漸く、やゝ打(うち)寛(くつろ)いだ態(テイ)を仕向けて云つた。
「将軍もよく御存じでせう。むかし荊州の問題で、呉侯の命をうけ度々、劉皇叔の御許へ、交渉の使にまゐりましたが、いやはや、えらい目に遭ひました。あればかりは忘れられませんよ」
「どうしてゞす」
「すつかり翻弄されたやうなものでしたからね」
「そんな事はないでせう。わが主劉皇叔はかりそめにも信義には背かないお方です」
「けれどつひに、今以て、荊州はお返しして下さらないではありませんか」
「あはゝゝゝ」
「笑ひ事ではありません。為に、呉侯からこの問題について使を命じられたものはみな実に面目を缺いてゐます。——やがて蜀四十一州を取つたら返すなどと宣(のたま)ひながら、いま蜀をお手に入れても実行なさらず、わづかに荊州の内三郡だけを返すと云はれたかと思へば、羽将軍が妨げて、故意にそれすらお返しなさらない」
「考へてもごらんなさい。わが皇叔以下、われ/\臣下は、かの烏林の激戦に、みな命を抛(なげう)ち矢石を冒して、血をもつて奪つた地ではないか。地下の白骨に対してもさう〔おいそれ〕と他国へ譲れるものかどうか。——もし足下がわれらの立場としたら何(ど)うでせう」
「待つて下さい。……過去をいふならば、かの当陽の戦に、将軍たちを初め皇叔一族も、惨澹たる敗北をとげ、帰るに国もなく、拠るに味方もなく、百計尽き果てたところを助けてあげたのは、どこの誰(たれ)でしたらう、呉の恩ではなかつたでせうか」
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